vol.1
3歳・・・同じ団地に住むカオルちゃんがバイオリンのお稽古をはじめた。
それが僕の音楽人生のスタートである。カオルちゃんと同じ時間を共有したい、そんなせつない恋心から僕もバイオリンのお稽古を始めたのである。そのカオルちゃんは数年前までNYフィル、シカゴフィルなどで活躍していた。
僕のバイオリンも12歳まで続いたが、今は何一つ弾けない。
後年、CM音楽制作業を初めて数年後、三井のリハウスのCMにてこの経験は一度だけ地味に活かされた。その割に唯一の自慢でもある。
朝日が丘に転校してきた美少女「白鳥麗子」本名「宮沢りえ」ちゃんがバイオリンを弾くシーンがあり、僕は無謀にも持ち方指導をしたのである。そう、弾けないけど形だけは覚えていたのだ。ちなみにこの時のCMで「三井のリハウス」のサウンドロゴを歌唱している女性シンガーは数年後、我がかーちゃんとなり、現在別居中である。なんじゃそりゃ。
11歳、同じクラスの美春ちゃんがブラスバンドに入部し、トランペットを始めた。
次の日、僕はカワイ楽器でマウスピースを買った。
「こんにちはトランペット」ならば今でも吹ける自信がある。
15歳、転校してきた境木中学校3年3組、えーと・・・男の名前はすぐに忘れる。ヤツ、仮にギタ夫とする。休み時間に彼の周りには女子が群がっていた。S&Gやかぐや姫の曲を弾き語り、くそったれが人気を独占していた。
家に帰ると、兄が持っていたガットギターにフォーク弦を張った。チューニングも知らなかったので、単音でメロディをつま弾いた。バイオリンを習っていたお陰で、弦を押さえる事に拒否感はなかった。密かに「ヤングギター」という月刊誌を買い求め、コードを覚え始めた。それからFのパワーコードが押さえられるまでには一年が経過し、なんとか一曲弾けるようになった頃、クラスは受験体制となり、ギタ夫の周りには参考書を持った女子が群がりギタ夫は有名進学校に入学した。
僕は完全に出遅れ、っつーか比べようがないほど馬鹿だったのだったが。当時好きだった直子ちゃんが目指す新設の神奈川県立舞岡高校を自分の目標に定め、なんとなく合格してしまった。しかし直子ちゃんは合格後すぐにゴウド君と交際い始め、その関係は以後卒業まで三年間続いた。
ギターが普通に弾けるようになった頃高校でバンドを組んだ。しかし全員がギタリスト志望だった。リーダーの地位をエサに、僕は泣く泣くベース担当になった。当時ベースは地味な地位だった。ベーシストがもてはやされるようになったのはそれから数年後、後藤次利が木之内みどりをやっちまってからだ・・・と思う。
さて我がバンド名は「紫陽花」アリス派とかぐや姫派に分かれたコピーバンドだった。
後年よもや谷村新司さんと懇意になるなど夢にも思わず、当時僕はかぐや姫派で、チンペイさんの歌い方をこきおろしていた。でも、チンペイさんがパーソナリティをつとめる文化放送の深夜番組「セイヤング」は大好きで毎週欠かさず聴いていた。ばんばひろふみさんとのコーナー企画「天才秀才馬鹿」は当時大ウケだった。
紫陽花でも僕のベースのリズムが悪いと指摘され、何度かクビにされかかったが、僕はリーダーだったので強権発動で回避した。当時オリジナルも作った。僕が初めて作詩作曲した作品のタイトルは「星の王子様」・・・今でも歌えるが二度と発表しないまま僕は死ぬ。夜中などに突然思いだすと、恥ずかしさでもん絶してしまう。覚えているヤツが存在していたらおそらくそいつを殺してしまうだろう。
というわけで、3歳の時カオルちゃんに出会った事が今の僕の音楽人生を決定づけたという事らしい。
既に高2の時点で大学に進学する気持ちはなかった。
具体的な進路のイメージも特に定まっちゃいなかったが、まあ高校進学時の受験勉強で燃え尽きてしまったのだな。
この頃はバンドでベースを弾いている事よりも、音楽の方向性を考えたり「いかに客にウケるか」みたいな事を考えることが楽しかった。レパートリーにもコピーだけではなくオリジナル曲を増やした。そんな折り、ピアノを入れる事をリーダー特権で決めた。幼なじみのマサコちゃんである。果たしてピアノが欲しかったのか、マサコちゃんという自分への潤いが欲しかったのか、間違いなく二分八分で後者だった。加入後は練習が楽しくて仕方なかったね。ちょいの間交際したけど、青学の大学生に持ってかれちまった・・・ケッ、いまだに青学の学生見るとキンタマ蹴り上げたくなるのはその時の後遺症だな、しないけど。
ドラムスも加入した。ベースがへたれでリズムが安定しないのが原因。これまた幼なじみのマサシが加入というよりも問答無用で乱入してきた。マサコちゃんは小学生の時マサシの事が好きだったことを知っていたので、何とか阻止しようと画策したのだが、腕っぷしに負けた。マサシは当時、日大藤沢という男子校に通っていて、この学校は当時馬鹿ワル野郎が多く戸塚駅でしょっちゅう公立高校の学生をカツアゲしていた。バンド内では馬鹿ワルマサシを入れる事によってヤツラのカツアゲから逃れようという行政的な思惑も有ったのかも知れない。僕以外はマサシの乱入もとい加入に積極的だった。
ちなみにマサシは現在カメラマンとして活躍。明日香の海外には必ず同行し、貴重な記録映像を撮ってくれている。明日香が素の自分を撮らせる事を認めた数少ないカメラマンだ。
さて、我が「紫陽花」は戸塚近辺では結構人気が高く戸塚公会堂で行われたワンマンコンサートでは1500人のキャパを満員にした。マサシが学校の友達を使って公立高校の生徒達に売りつけたのではという黒い噂も立ったが。
当時、戸塚駅近辺では「紫陽花」と人気を二分する市立戸塚高校の「政府高官」といフュージョンバンドがあった。ギタリストのテクニックが素晴らしいと評判だった。
そのギタリストの名前は成川と言った。そう現在TRAや明日香のサポートで有名なナリさんである。そして、キーボードは津田直士といい、後にCBSソニーに入社し、Xをデビューさせた初期のプロデューサーとして有名である。しかも僕の義理の兄貴でもある。彼の妹が現在のかあちゃんである。ちなみに現在別居中・・・。
また、後に大ブレイクしてしまった「横浜銀蝿」も同時代を生きていた。彼らのコンサート前の単独プロモーションは今でも伝説になっている。ある朝、戸塚駅前の「横浜銀行」の「行」の字が一夜にして全て看板から案内まで「蝿」の字に張り替えられていたのである。この一件は当時神奈川新聞にも掲載された。
ギターのジョニーさんとは現在もキングレコードのディレクターとして親交が続いている。もう一人、我が舞岡高校の同級生には馬鹿テクギタリストが存在した。Gibsonのレスポールを持ちパープルやツェッペリンなどのハードロックを弾きまくっていた。
その名を本田清巳通称ホンチといい、ヤツもまた明日香の「ake-kaze」「凛の国」
「神々の星」「声」「花結び」などでダイナミックな生ギターを弾いている。また、彼は高校卒業後しばらくして、白井貴子&クレイジーボーイズに途中参加し、バンドのみんなのアイドルだった白井貴子を後から来てかっさらい、結婚して恨まれた事は有名である。ちなみにBeloveloverのドラムのヨッチはクレイジーボーイズのドラマー、河村カースケ氏の息子である。
同じく舞岡高校の同級生でマサシと同じく幼なじみに高尾直樹というヤツがいる。高校卒業後アメリカに留学し、帰国後上智の大学院に進むも僕にそそのかされ、音楽業界に引きずり込まれた。現在は福山雅治、鈴木雅之、吉田拓郎、Misia他多数のサポートコーラスとして多忙を極めている。彼は明日香のポケモンジラーチ「小さきもの」海外版でコーラスを入れてくれている。
しかし振りかえってみると、現在僕の周りの貴重な音楽ブレーン達の多くはこの高校生の時期の出会いから熟成されているようだ。
さて、次は怒濤の卒業後、ヤクザな芸能界篇に突入する。
僕の平和な音楽時代はここまでだった
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