CM業界篇 vol.3 忌野清志郎さんとの事
CMディレクター、映画監督の市川準さんが急逝された。享年59歳。若すぎる死だ。日本の名監督の一人だった。
市川監督とは80年代何本ものCMを一緒に作らせて頂いた。監督はチャクラの板倉文が作る作品が好きで、いつも作曲家は文ちゃんをご指名だった。
僕がご一緒させて頂いた作品で思い出深いのは当時まだ民営化される直前の電電公社のCMだ。「カエルコール」でっかいカエルに座ったお父さんが家族に「これからカエル」と電話するCMだ。この作品はこの年のACC大賞を受賞した。
音楽は黒人ボーカリストのデンプシー.Jrを起用したバラードだった。彼も十数年前に肝臓がんで亡くなった。
市川監督の作品はどれも悲哀に満ちていた。そして、その中に人への深い洞察が投影されていた。僅か15秒に人間ドラマが凝縮されていた。禁煙パイポのCMはその最たるものだった。音楽は常に美しく優しいものを求めていた。特に小編成のストリングスの音が好きだった。
・・・そうか、亡くなられたのか。とても残念だ。もう一度仕事をしたかった。
一緒に仕事をした監督が次々に亡くなってゆく。夜を徹しての作業が多いのでみな若くして亡くなる。いずれ書くがHATの里見征武監督とは数十本のCMをご一緒させて頂いた。今から十年前に亡くなられた。思えば僕がCMから離れたのは里見監督が亡くなられてからだ。それ以来仕事がつまらなくなってしまったのだ。
さて、バブル後半、CMはタイアップ大全盛期を迎える。
古くは資生堂、カネボウのキャンペーンソング。キャンペーンガールが即ちシンデレラガールになるように70年代後半から80年代に掛け、この二社のキャンペーンソングの大ヒットはお約束だった。ヤマハ主宰のポプコンに陰りが見え、アイドルが徐々に衰退し始めた時代だった。全レコート゜メーカーもマネージメントも資生堂、カネボウの春夏のキャンペーンソングを奪取する為にやっきになっていた。
矢沢永吉の「時間よとまれ」尾崎亜美「マイピュアレディ」世良公則&ツイスト「燃えろいい女」小椋径「揺れるまなざし」全て大ヒットした。
カネボウからは夏目雅子、麻生裕未、鈴木保奈美が大ブレイクした。カネボウは女優を起用するのがうまかった。音楽では吉川晃司、白井貴子が起用されていた。
80年代後半はカメリアダイアモンドをはじめとして、とにもかくにも各企業はアーティストとのタイアップに狂奔した時期だった。理由はメディアミックス戦略。CMで流している曲が他のメディア、TVやラジオ有線などで流れた時の広告効果は、費用対効果に換算した場合とんでもなく増大する。JALの夏冬キャンペーンソング、ノエビア化粧品の洋楽戦略、前述したがカメリアダイアモンドは当時殆どの曲がミリオンヒットになった。当然大プレゼンが行われたものだ。毎回数十人のアーティストと楽曲が俎上に上がった。当社ではtrfの「マスカレード」布袋寅泰の「poison」などが採択された。いずれも100万枚を越える大ヒットになった。当時はしこたま儲けさせて頂いた。
そんな中、忘れられない当社プロデュースのタイアップがある。単に曲を起用しただけではなく一からがっぷりとプロデュースさせて頂いた作品。
それはエースコック スーパーカップのCM。タイマーズの歌う「デイ・ドリーム・ビリーバー」だ。誰もが知っているモンキーズのカバーソングである。ある日、当社のスタッフが清志郎さんのライブに行き、日本語訳されたこの曲を聴いたのが端緒である。その話を聞き、早速レコードメーカーの東芝EMIに電話をしてこの時のライブ音源を取り寄せてもらった。一聴して「♪デイドリームビリーバー そんで 彼女はクイーン」の部分に鳥肌が立った。Andをそんでに訳した清志郎さんは凄いと思った。・・・この曲は大ヒットする。確信した。すかさず大阪に行き(エースコックは本社が大阪)広告代理店のプランナー達に聴かせた。「この曲で行きましょう!!必ず大ヒットするでしょう」広告代理店のスタッフ達も即決だった。すぐにプレゼンの用意を整え、翌朝エースコックに赴きプレゼンを実施した。三社競合だった。結果は我がチームの勝利だった。
しかし、勝つには勝ったがこの仕事を完成させるまでにはいくつもの障壁があった。ハンパじゃなかった。
まず、ボーカルの忌野清志郎さん。名前にクレームがついた。「忌まわしい」は企業イメージを損ねると。で、いやいや、今回はユニットであくまでもタイマーズだからと説明したら「大麻を連想させる」と言われた。まあ、清志郎さんもその辺を狙ってるから言い返す言葉に力がない。しかし、当時日清のかなり後ろで後じんを拝していたエースコックはこの商品には相当極端な広告戦略が必要だと考えていた。最後は社長のご子息で当時の常務の大英断で決定した。GO!!である。
録音はロンドンで行われた。このCMからは数々のヒットが生まれた。もちろん曲は大ヒットした。オリコン初登場で確か五位だったかな。CMに出演するサーファーギャルが発したアドリブの台詞「グラッチェグラッチェ」は流行言葉にもなった。
さて、大問題勃発はここからである。
商品のスーパーカップは大ヒット商品になった。他メーカーも次々に大型カップラーメンを市場に投入した。今に至るまでこの分野ではエースコックは一人勝ちである。CM制作者としてこんなに嬉しい事はない。スポンサーも大喜びである。何百枚ものCDをお買い上げ頂いた。問屋さんに配る為に。常務も手放しで喜んでくださった。すべてがうまく進んでいた・・・筈だった。
「本日、タイマーズが夜のヒットスタジオに初登場!!」CXでは番宣をばんばん流していた。その日の目玉はタイマーズである。歌う曲は勿論「デイ・ドリーム・ビリーバー 」である。スポンサーは全社員、全問屋、お得意先に大号令を掛けた。
「本日の夜のヒットスタジオを是非ご覧下さい!!!」と。お祭り騒ぎである。
夜のヒットスタジオは当時の音楽番組では唯一の「生放送」である。今ならば「Mステである。余談だが、生放送ほど緊張する事はない。Mステには何度か自社アーティストを出演させたが、林明日香のTV初出演がMステだった。その日の目玉扱いだった。出演者はみな本番前エレベーターの使用を禁止されている。生放送だからである。何か事故があってエレベーターが止まってしまったら事件である。楽屋がある三階から出演者はみな出番前にぞろぞろと階段を使ってスタジオ入りするのである。スタジオに入れるスタッフは限られている。スタジオ自体は非常に狭い。TVで見ているととても広いスタジオのように思えるが実はとんでもなく狭い。そこにクレーンも使ったカメラが七台、縦横無尽に走り回るのだ。あのカメラワークは芸術である。まあ、そんな空間なのでヘアメークさん、マネージャー以外はたいてい楽屋のTVで確認する事になる。これがメチャクチャ緊張するのだ。出番が近づくにつれ心臓はバクバクになる。アーティスト本人は結構けろっとしていたりするものだけど。
さて、話は戻るがその日は仕事も早く済んで家にはオンエア前に着いた。晩飯を食べながら番組開始の十時を待っていた。
番組が始まった。わくわく。タイマーズの出番は後半である。そしてCM後、口元に大きなマスクをし、ヘルメットを被った怪しいバンドが画面に映った。
吉村真理さんの「それでは初登場、タイマーズでデイ・ドリーム・ビリーバーお聴きください」の前振りで曲が始まった。ウーリッツアーのエレキピアノの刻みのイントロ。「♪~もう今は彼女 別々の夢~」いいカンジである。イカのリング揚げを頬張りながら目は画面に釘付け。ちなみにスルメイカではなくヤリイカである。口当たりはとても柔らかい。ソースよりは醤油とマヨネーズが合う。そんな事はどうでもいい。そして、間奏。俯いてギターを弾いていた清志郎さんがいきなり顔を上げマイクに近づいた。そして清志郎さんは怒鳴った。生放送で。
「おめえら!!カップラーメンばっか喰ってると頭悪くなるぞー!!!」
・ ・・・・・・・えっ??????
箸が右手から落ちた。次に茶碗が左手から滑り落ちた。最後に口からイカのリング揚げがぽろりと落ちて膝に乗っかり、マヨネーズをべったりとズボンに残して床に落ちた。
頭が真っ白になるという表現は使い古された表現だけど、この時の状態はまさにそれだった。
・・・・清志郎さんは今回のタイアップを喜んでくれなかったのか?
翌早朝、一番の飛行機で大阪に飛んだ。広告代理店では非常召集が掛けられ、大会議室に専務を中心に、関わる全てのスタッフが揃っていた。
・ ・・・またかよ・・・・なんで俺の人生こんな事の繰り返しなんだ?
別に当社がマネージメントしているわけでもないのに、その会議では散々罵倒された。とにかく下請けに責任を押し付けたいのが一般企業である。その後、エースコックに行き、ほとんど土下座。
でもね、常務の一言が胸に刺さった。
「この商品を開発するのに社内は皆不眠不休でした。一食のカップラーメンで、お腹いっぱいになるようにお客さんに喜んで頂ける商品を作ったのです。忌野さんに私たちの気持ちが伝わらなかったのでしょうか・・・」
ただ頭を下げて常務の言葉を聞いていた。トンボ帰りで東京に戻り、東芝EMI
に直行した。ディレクターは逃げた。当時制作本部長だった現ユニバーサルミュージックの会長の石坂氏がデスクの後ろから貰い物のサントリーロイヤルを取り上げ、僕に渡して言った。「鈴木さん、なんとかしてね、よろしく」でかい顔を振りながら石坂さんは消えた。
翌日、タイマーズのライブが横浜国大で行われる事を知った僕は、とにかく清志郎さん本人と話がしたいと思って横浜国大に乗り込んだ。秋の長雨がしとしとと肩を濡らした。
楽屋の入り口に行くと、東芝EMIのスタッフが大挙して並んでいた。恐らく僕が乗り込んでくる事を社内の誰かから聞いたのだろう。受付に来意を告げると当時宣伝担当だったKがやって来た。立ったままその場で話をした。
「東芝としてはこの問題をどうクリアするつもりですか?」
「いや、我々にも予想外だったから・・・」Kは口を濁した。
「とにかく、清志郎さんから詫びのひとつでも頂けなけりゃ、小僧の使いじゃないんだし、俺も収まりつかないんですよ。会わせて下さい、清志郎さんに」
「いや、そう言われても。今、清志郎さんに会わせる訳にはいきません」
その言葉を聞いて僕は楽屋に届けとばかりに声を張り上げた。
「清志郎さん!!!鈴木です!!!!エースコックの人達は本当に真剣に今回の企画を喜んでいたんです!!何十年もインスタントラーメン一筋で頑張って来たたくさんの人達が清志郎さんの一言で悲しんでいます。怒ってるんじゃありません。なんで?という気持ちなのです。どうか気持ちを汲んで下さい・・・・・」
僕は東芝EMIのスタッフに取り押さえられた。傘を振り回しそれでも叫んだ。
「みんな清志郎さんの事が好きなんです。みんな全社員が清志郎さんのテレビ出演を楽しみにしていたんですよー!!!!!」
僕は当時の東芝EMI社員に羽交い締めにされて表に放り出された。
この日のコンサートは立ち見が出る程に大盛況だった。関係者の振りをして僕は会場に紛れ込んだ。コンサートの中盤、清志郎さんが叫んだ。次の曲は「デイ・ドリーム・ビリーバー!!!!」そしてイントロ。その時だった。
「エースコックの人達!!!それからスズキー!!!!!ごめんよー」
甘いのだが、僕はこの一言に感動してしまった。涙が出て来た。散々苦労した仕事だったがやって良かったと心底思ってしまった。
この日のビデオを持って翌日エースコックに行った。常務は「不問に付す」
と言って下さった。やれやれ。清志郎さんに貸しひとつ。まだ返してもらってないけど、とにかく病気に勝って復帰してくれ。あんたがいない音楽業界はつまらんよ。
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