音楽

CM業界篇 vol.3 忌野清志郎さんとの事

 CMディレクター、映画監督の市川準さんが急逝された。享年59歳。若すぎる死だ。日本の名監督の一人だった。
 市川監督とは80年代何本ものCMを一緒に作らせて頂いた。監督はチャクラの板倉文が作る作品が好きで、いつも作曲家は文ちゃんをご指名だった。
 僕がご一緒させて頂いた作品で思い出深いのは当時まだ民営化される直前の電電公社のCMだ。「カエルコール」でっかいカエルに座ったお父さんが家族に「これからカエル」と電話するCMだ。この作品はこの年のACC大賞を受賞した。
音楽は黒人ボーカリストのデンプシー.Jrを起用したバラードだった。彼も十数年前に肝臓がんで亡くなった。
 市川監督の作品はどれも悲哀に満ちていた。そして、その中に人への深い洞察が投影されていた。僅か15秒に人間ドラマが凝縮されていた。禁煙パイポのCMはその最たるものだった。音楽は常に美しく優しいものを求めていた。特に小編成のストリングスの音が好きだった。
・・・そうか、亡くなられたのか。とても残念だ。もう一度仕事をしたかった。
 一緒に仕事をした監督が次々に亡くなってゆく。夜を徹しての作業が多いのでみな若くして亡くなる。いずれ書くがHATの里見征武監督とは数十本のCMをご一緒させて頂いた。今から十年前に亡くなられた。思えば僕がCMから離れたのは里見監督が亡くなられてからだ。それ以来仕事がつまらなくなってしまったのだ。



 さて、バブル後半、CMはタイアップ大全盛期を迎える。
古くは資生堂、カネボウのキャンペーンソング。キャンペーンガールが即ちシンデレラガールになるように70年代後半から80年代に掛け、この二社のキャンペーンソングの大ヒットはお約束だった。ヤマハ主宰のポプコンに陰りが見え、アイドルが徐々に衰退し始めた時代だった。全レコート゜メーカーもマネージメントも資生堂、カネボウの春夏のキャンペーンソングを奪取する為にやっきになっていた。
矢沢永吉の「時間よとまれ」尾崎亜美「マイピュアレディ」世良公則&ツイスト「燃えろいい女」小椋径「揺れるまなざし」全て大ヒットした。
カネボウからは夏目雅子、麻生裕未、鈴木保奈美が大ブレイクした。カネボウは女優を起用するのがうまかった。音楽では吉川晃司、白井貴子が起用されていた。
 80年代後半はカメリアダイアモンドをはじめとして、とにもかくにも各企業はアーティストとのタイアップに狂奔した時期だった。理由はメディアミックス戦略。CMで流している曲が他のメディア、TVやラジオ有線などで流れた時の広告効果は、費用対効果に換算した場合とんでもなく増大する。JALの夏冬キャンペーンソング、ノエビア化粧品の洋楽戦略、前述したがカメリアダイアモンドは当時殆どの曲がミリオンヒットになった。当然大プレゼンが行われたものだ。毎回数十人のアーティストと楽曲が俎上に上がった。当社ではtrfの「マスカレード」布袋寅泰の「poison」などが採択された。いずれも100万枚を越える大ヒットになった。当時はしこたま儲けさせて頂いた。
 そんな中、忘れられない当社プロデュースのタイアップがある。単に曲を起用しただけではなく一からがっぷりとプロデュースさせて頂いた作品。
 それはエースコック スーパーカップのCM。タイマーズの歌う「デイ・ドリーム・ビリーバー」だ。誰もが知っているモンキーズのカバーソングである。ある日、当社のスタッフが清志郎さんのライブに行き、日本語訳されたこの曲を聴いたのが端緒である。その話を聞き、早速レコードメーカーの東芝EMIに電話をしてこの時のライブ音源を取り寄せてもらった。一聴して「♪デイドリームビリーバー そんで 彼女はクイーン」の部分に鳥肌が立った。Andをそんでに訳した清志郎さんは凄いと思った。・・・この曲は大ヒットする。確信した。すかさず大阪に行き(エースコックは本社が大阪)広告代理店のプランナー達に聴かせた。「この曲で行きましょう!!必ず大ヒットするでしょう」広告代理店のスタッフ達も即決だった。すぐにプレゼンの用意を整え、翌朝エースコックに赴きプレゼンを実施した。三社競合だった。結果は我がチームの勝利だった。
しかし、勝つには勝ったがこの仕事を完成させるまでにはいくつもの障壁があった。ハンパじゃなかった。
まず、ボーカルの忌野清志郎さん。名前にクレームがついた。「忌まわしい」は企業イメージを損ねると。で、いやいや、今回はユニットであくまでもタイマーズだからと説明したら「大麻を連想させる」と言われた。まあ、清志郎さんもその辺を狙ってるから言い返す言葉に力がない。しかし、当時日清のかなり後ろで後じんを拝していたエースコックはこの商品には相当極端な広告戦略が必要だと考えていた。最後は社長のご子息で当時の常務の大英断で決定した。GO!!である。
 録音はロンドンで行われた。このCMからは数々のヒットが生まれた。もちろん曲は大ヒットした。オリコン初登場で確か五位だったかな。CMに出演するサーファーギャルが発したアドリブの台詞「グラッチェグラッチェ」は流行言葉にもなった。
さて、大問題勃発はここからである。

 商品のスーパーカップは大ヒット商品になった。他メーカーも次々に大型カップラーメンを市場に投入した。今に至るまでこの分野ではエースコックは一人勝ちである。CM制作者としてこんなに嬉しい事はない。スポンサーも大喜びである。何百枚ものCDをお買い上げ頂いた。問屋さんに配る為に。常務も手放しで喜んでくださった。すべてがうまく進んでいた・・・筈だった。
 「本日、タイマーズが夜のヒットスタジオに初登場!!」CXでは番宣をばんばん流していた。その日の目玉はタイマーズである。歌う曲は勿論「デイ・ドリーム・ビリーバー 」である。スポンサーは全社員、全問屋、お得意先に大号令を掛けた。
「本日の夜のヒットスタジオを是非ご覧下さい!!!」と。お祭り騒ぎである。
 夜のヒットスタジオは当時の音楽番組では唯一の「生放送」である。今ならば「Mステである。余談だが、生放送ほど緊張する事はない。Mステには何度か自社アーティストを出演させたが、林明日香のTV初出演がMステだった。その日の目玉扱いだった。出演者はみな本番前エレベーターの使用を禁止されている。生放送だからである。何か事故があってエレベーターが止まってしまったら事件である。楽屋がある三階から出演者はみな出番前にぞろぞろと階段を使ってスタジオ入りするのである。スタジオに入れるスタッフは限られている。スタジオ自体は非常に狭い。TVで見ているととても広いスタジオのように思えるが実はとんでもなく狭い。そこにクレーンも使ったカメラが七台、縦横無尽に走り回るのだ。あのカメラワークは芸術である。まあ、そんな空間なのでヘアメークさん、マネージャー以外はたいてい楽屋のTVで確認する事になる。これがメチャクチャ緊張するのだ。出番が近づくにつれ心臓はバクバクになる。アーティスト本人は結構けろっとしていたりするものだけど。
 さて、話は戻るがその日は仕事も早く済んで家にはオンエア前に着いた。晩飯を食べながら番組開始の十時を待っていた。
 番組が始まった。わくわく。タイマーズの出番は後半である。そしてCM後、口元に大きなマスクをし、ヘルメットを被った怪しいバンドが画面に映った。
 吉村真理さんの「それでは初登場、タイマーズでデイ・ドリーム・ビリーバーお聴きください」の前振りで曲が始まった。ウーリッツアーのエレキピアノの刻みのイントロ。「♪~もう今は彼女 別々の夢~」いいカンジである。イカのリング揚げを頬張りながら目は画面に釘付け。ちなみにスルメイカではなくヤリイカである。口当たりはとても柔らかい。ソースよりは醤油とマヨネーズが合う。そんな事はどうでもいい。そして、間奏。俯いてギターを弾いていた清志郎さんがいきなり顔を上げマイクに近づいた。そして清志郎さんは怒鳴った。生放送で。
「おめえら!!カップラーメンばっか喰ってると頭悪くなるぞー!!!」

・ ・・・・・・・えっ??????
箸が右手から落ちた。次に茶碗が左手から滑り落ちた。最後に口からイカのリング揚げがぽろりと落ちて膝に乗っかり、マヨネーズをべったりとズボンに残して床に落ちた。
頭が真っ白になるという表現は使い古された表現だけど、この時の状態はまさにそれだった。

・・・・清志郎さんは今回のタイアップを喜んでくれなかったのか?

 翌早朝、一番の飛行機で大阪に飛んだ。広告代理店では非常召集が掛けられ、大会議室に専務を中心に、関わる全てのスタッフが揃っていた。
・ ・・・またかよ・・・・なんで俺の人生こんな事の繰り返しなんだ?
 別に当社がマネージメントしているわけでもないのに、その会議では散々罵倒された。とにかく下請けに責任を押し付けたいのが一般企業である。その後、エースコックに行き、ほとんど土下座。
 でもね、常務の一言が胸に刺さった。
「この商品を開発するのに社内は皆不眠不休でした。一食のカップラーメンで、お腹いっぱいになるようにお客さんに喜んで頂ける商品を作ったのです。忌野さんに私たちの気持ちが伝わらなかったのでしょうか・・・」
 ただ頭を下げて常務の言葉を聞いていた。トンボ帰りで東京に戻り、東芝EMI
に直行した。ディレクターは逃げた。当時制作本部長だった現ユニバーサルミュージックの会長の石坂氏がデスクの後ろから貰い物のサントリーロイヤルを取り上げ、僕に渡して言った。「鈴木さん、なんとかしてね、よろしく」でかい顔を振りながら石坂さんは消えた。
 翌日、タイマーズのライブが横浜国大で行われる事を知った僕は、とにかく清志郎さん本人と話がしたいと思って横浜国大に乗り込んだ。秋の長雨がしとしとと肩を濡らした。
 楽屋の入り口に行くと、東芝EMIのスタッフが大挙して並んでいた。恐らく僕が乗り込んでくる事を社内の誰かから聞いたのだろう。受付に来意を告げると当時宣伝担当だったKがやって来た。立ったままその場で話をした。
「東芝としてはこの問題をどうクリアするつもりですか?」
「いや、我々にも予想外だったから・・・」Kは口を濁した。
「とにかく、清志郎さんから詫びのひとつでも頂けなけりゃ、小僧の使いじゃないんだし、俺も収まりつかないんですよ。会わせて下さい、清志郎さんに」
「いや、そう言われても。今、清志郎さんに会わせる訳にはいきません」
その言葉を聞いて僕は楽屋に届けとばかりに声を張り上げた。
「清志郎さん!!!鈴木です!!!!エースコックの人達は本当に真剣に今回の企画を喜んでいたんです!!何十年もインスタントラーメン一筋で頑張って来たたくさんの人達が清志郎さんの一言で悲しんでいます。怒ってるんじゃありません。なんで?という気持ちなのです。どうか気持ちを汲んで下さい・・・・・」
僕は東芝EMIのスタッフに取り押さえられた。傘を振り回しそれでも叫んだ。
「みんな清志郎さんの事が好きなんです。みんな全社員が清志郎さんのテレビ出演を楽しみにしていたんですよー!!!!!」
僕は当時の東芝EMI社員に羽交い締めにされて表に放り出された。

この日のコンサートは立ち見が出る程に大盛況だった。関係者の振りをして僕は会場に紛れ込んだ。コンサートの中盤、清志郎さんが叫んだ。次の曲は「デイ・ドリーム・ビリーバー!!!!」そしてイントロ。その時だった。
「エースコックの人達!!!それからスズキー!!!!!ごめんよー」
甘いのだが、僕はこの一言に感動してしまった。涙が出て来た。散々苦労した仕事だったがやって良かったと心底思ってしまった。

 この日のビデオを持って翌日エースコックに行った。常務は「不問に付す」
と言って下さった。やれやれ。清志郎さんに貸しひとつ。まだ返してもらってないけど、とにかく病気に勝って復帰してくれ。あんたがいない音楽業界はつまらんよ。

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CM業界篇 vol.1

しばらく実家でぼうっとする日々を過ごしていた。激動の芸能界からほうほうの態で逃げ出し、さてこれから何をすべえかな、と考えていた。当時は特に自分が背負うべき借金も無く養うべき家族も存在していなかったので、気は楽っちゃあ楽だった。とは言っても金は無い。芸能界で様々な人に出会い人脈はそこそこ築けたが、あれだけ騒動を起してしまったので、当分合わせる顔がない。どこかのレコード会社に潜り込む事も考えてみたが、いずれにしても上条さんの知り合いばかりだ。しばらくこのラインからは遠ざかるべきだと心と頭が警鐘を鳴らしていた。とは言うものの、この業界に入るきっかけを作ってくれたエジソン先生には、事の顛末を報告する義務がある。
そんな訳で久しぶりに我が師を訪ねた。ちなみに、つい最近我が師エジソン氏(渡辺敬之氏)は秋川雅史のプロデュースをしている。「千の風に乗って」も氏の手による作品だ。儲かってるんだろうな・・・。

「今さら合わせる顔も無いのですが、まあかくかくしかじかで、職を失いまして・・・でへへへ」
「ばかやろ、だから上条さんはなにかと危ないからやめとけって言ったじゃないか。自業自得だな」
「まったくです。返す言葉もありやせん」
「ふむ・・・ところでケンジ、CM音楽やる気はないか」
「いやはや、今さらより好みしている状態じゃございませんので、とにかくなんでもやります」
「実はミュージックハウスゼロという会社から誰か根性のある若いヤツいないかと言われていたのだよ」
「根性っすか・・・まあ、かなり叩かれまくりましたからね」
「うん、じゃっ今から電話してみる」
そんな訳でまたしても師の世話になり、翌週からこの会社に勤める事とあいなった。
実は以前エジソンさんのアシスタントをしていた頃からこの会社とは馴染みであった。
なので、面接もなしのいきなりの採用。もちろん三ヶ月間の試用期間は設けられたが。しかし、上条ボスの元で相当しごかれたので、この頃既に処世術には長けていた。21才の夏。
出社初日は30分前に行き、鍵を貰っていないのでポストに入っていた読売新聞を勝手に取り出し会社の前で座り込んで読んでいた。間もなくデスクの女性が出社してきた。すかさず90度の角度で挨拶。
「この度お世話になる事にあいなりました、鈴木です。よろしくお願い致します」
相手の方が恐縮していたね。
会社に入るとすかさず自分から「掃除機はどこでしょう」と尋ね、いきなり会社中を掃除し始めた。とにかく最初から・・・こやつはただものではない・・・と思わせる事が大事だと計画を練っていた。続々出社してくる先輩スタッフ達に完璧な挨拶をし、事前にデスクの女性から各先輩達、社長のコーヒー及びお茶の好みを聞き出していたので、まずはお茶汲み。その翌日から毎朝30分前に出社し、掃除をし、各デスクを綺麗に拭き、コーヒーを準備する。これを一年間続けた。煙草の銘柄も覚え、それぞれを常に何箱か常備し、相手の様子を窺いながら無くなるとすかさず目の前に差し出す。
もうこの頃は楽しくて仕方なかった。こんな事はお茶の子さいさい。嫌味なヤツだったね。
で、二ヶ月で試用期間終了。晴れて正社員となりました。利点は厚生年金、社会保険に加入出来た事かな。ボーナスもあれば給料もきちんきちんと支払われて、それまでの世界とは違ってもうぬるま湯生活。
あるプロデューサーのアシスタントに付いたのだけれども、この人は結構ガタイもでかくて押し出しも強い人で、僕に対しても何かと偉ぶるタイプの人だったのだけれども、ふん、今までの人達に較べればもう仏様のように思えたものだった。
しかし、この高慢さがいけなかった。後々僕はCM業界で散々苦労する。
CM業界は芸能界と違い、相手は一般企業のホワイトカラーさん達である。普通のサラリーマン相手の商売だ。芸能界の常識は通じない。広告代理店は確かにカタカナ職業で、業界人ではあるが、当時の芸能界のような海千山千はいない。皆一流の大学を卒業したエリートばかり。当時から(まあ今もだけれど)僕はかなり短気だった。しかも負けず嫌い。特に上からモノを言われるとすぐにカチンとくる性質。本来、仕事とは頂くもの、頭を下げてナンボの世界。しかもCMは受注業。スポンサー様の大事なお金を預かって販売促進の為にクリエイティブを発揮する。今ではさすがに理解出来るようになってはきたが、当時の僕には全然全くかけらも理解出来なかった。もう喧嘩しまくり。相手が理不尽な事(スポンサーは日本語で書くと「理不尽人」となる)言うと、たかだか21才のアシスタントに過ぎない僕はいきなり暴言吐きまくり。暴れまくり。
入社半年頃の事。あるアパレルメーカーの打ち合わせ。
事前に貰った絵コンテを元にデモテープを制作し持参した。本番前のラフな音楽スケッチ。しかしながら徹夜で創り上げた作品だ。この日のミーティングはオールスタッフミーティングと言って、CM制作に関わる全てのスタッフが顔を揃える。代理店のクリエイター、ディレクター、プロデューサー、制作アシスタント、カメラマン、ライトマン、スタイリスト、ヘアメイク、大道具、音効さん・・・当時CM音楽制作屋の立場は低かった。現在はプロダクションのPM(制作)さんが時間をずらして我々が待たされる事は少なくなったが、当時は違った。彼等から見ればたかだか音楽屋風情。この時の打ち合わせでも散々待たされた。同じテーブルに座ったまま2時間。我々には全く関係の無い撮影の段取りを延々聞かされる。
ようやく音楽の話になったかと思うとすぐにディレクターは撮影部との話を蒸し返す。徐々に撮影スタッフ達が帰り始め、我々だけが残された。するとディレクターはいそいそと鞄にコンテを詰め込み、映像プロダクションの制作に言った。
「次あるから、オレ行くわ」
むっ。
「あの・・・」
ディレクターはゴミでも眺めるような眼を僕に向けた。
「こっちは2時間以上待たされてるんですが、デモテープ聞いていただけないですか?」
既に僕の眼は座っていた。下からすくい上げるようにディレクターを睨んだ。
すると、そいつはこうのたまった。
「音楽は取りあえず鳴ってりゃいいんだよ。制作に渡しとけ」
ぶちっ!!
僕はすかさず持っていたカセットテープをおもいっきりディレクターの顔に投げ付けた。
「てめえ、この場で絞められてーのか!!」一喝。それでも怒りは静まらない。僕は4m×2mの会議室テーブルの端を掴んでその場でひっくり返した。そしてそのまま立ち去った。上司置き去り。
その時のディレクターは当時超が付く売れっ子だった。つい最近癌で死んだと聞いた。
もちろん上司からは散々叱られた。でもね、殴られる訳でも拳銃向けられる訳でも無いので馬耳東風。こうして僕は仕事をナメ始めた。今考えると顔から火が出る。

 

 CM業界に入って一年目に海外録音の機会がやってきた。
某衣料量販店の企業CMに歌手のリタクーリッジを起用する事が決まったのだ。
普通に考えれば入社したばかりのペイペイ社員が海外録音に随行出来るなどおよそあり得ない話なのだが、リタクーリッジは当時L.A在住だったのと、彼女のメーカーがL.Aに本社を置くA&Mレコードだった事もあり、LAに土地勘がある僕にお鉢が回ってきたのだった。
この時の作品は作詞を三浦徳子さんに依頼し、作曲をジュリー沢田研二さんにお願いした。「Love from Tokyo~美しき女(ひと)~」という作品だ。
 ほぼ一年半ぶりにL.Aにやってきた。
 こてこての浪速の商人のクライアント様二名が同行。内一名は社長のご子息様。失礼があってはならない。まあ、この人達の主目的はゴルフとラスベガス視察だったから、そっちはプロデューサーに任せて、僕はもっぱら現場の録音作業を担当した。

 胸元の大きく開いたドレスを着て、リタクーリッジがA&Mスタジオに姿を現した。当時のリタはまだ30代半ば。顔はでかいが、いい女真っ盛りだった。挨拶が済んだ途端にリタはジョイントを取り出した。マリファナである。その場にいるみんなに振る舞ってくれた。勿論クライアント様は居ない。この時のマリファナは極上ものだった。カナダのケペック産だと言っていた。もう日本勢フラッフラ。そんな状態で始まったレコーディングだからミュージシャンもエンジニアも飛びまくり状態。最高の録音環境だったね。早く日本でも解禁して欲しいものだ。音楽従事者は一度は体験するべきである。捕まってもしゃあない。音やグルーブが視覚で体験出来る。一度これを体験しておくと、音楽に対する捉え方が根本的に変わる。日本のミュージシャンはどうしても理屈に走るきらいがあるが、それは大麻を経験してないからである。そうに決まってる。断言しちゃう。海外旅行に行くならばオランダにしなさい。ちなみに他の薬物は音楽には適さない。コカインもヘロインも覚せい剤も、音楽なんざやってる事がバカバカしくなるから。やめときなさい。LSDはライブ前にきめると良いかもしれない。話逸れすぎ御免。
 レコーディングはあっという間に終了した。最近久しぶりにこの時の音源を聴いてみたが、いやあ・・・・なんちゅうか、まあ。あははだったな。メロディはマイナー調の歌謡曲。なんだかんだで当時結構売れた。
 さっさとレコーディングを終了し、トラッダウンをエンジニアに任せ、クライアント様二名に随行してべガスに行くことになった。カリフォルニアの砂漠地帯を体験して頂く為に空路ではなく、リムジンで。ひたすら砂漠をリムジンでぶっ飛ばして夜明けにフリーウェイ沿いのカフェでアメリカンコーヒーを啜る。なかなかに味わい深い旅だった。地平線が下から紫、群青、紅、朱色に染まっていく様は日本では見られないであろう大自然の彩色だった。まさにバグダットカフェのシーンそのもの。
 当時のべガスは今程観光地化していず、砂漠にいきなり現れた巨大なパチンコ店の集合体といった趣だった。まだマフィアがあからさまに闊歩していて、街中はそれなりに暴力と賭博の匂いが強かった。しかし、これぞ旧きアメリカといった風景には今のアメリカにはないいくぶん無法的だが、奔放な自由が感じられた。
 今思うとこの仕事は大名旅行だった。日本はバブルに向けてまっしぐらの時期だったからね。クライアント様達には下にもおかないおもてなし。なんでもあり。言えない事もたくさんあり。カジノの軍資金も制作費の中から捻出出来た。夜のお供もご相伴にあずかった。当時のべガスにはアメリカ中から美女娼婦が集まっていた。アングロサクソン、イタリア系、アイリッシュ、ユダヤ系、もう美女美女。よりどりみどり。博打はとことん負けたがいい思いもたっぷり味わった。あんな時代もあったのね。今やクライアントが海外録音に同行するなんてまずない。大体からして今のネット社会では海外録音する必要がない。いいんだか悪いんだか。
そうそう、この時クライアントの一人が1万ドル入りの財布を盗まれた。もちろんそのお金も制作費で補填した。(この時の1万ドルは当時のレートで240万円)
 で、その時こっそりと懐に入れた300ドルを握りしめて僕は帰国後成田からタクシーで川崎堀之内に向かった。ぽん引きにドルで入れる店を聞いたら案内してくれた。店の名前はコックピット。スッチー姿で迎えてくれた姐さんはなんと当時のおふくろよりも年季が入ったその道のベテラン。それでも射精出来た僕は若かった。その後の懺悔と言うか後悔の気分はなんとも言えない。だって姐さんたら鼻の下にしわが見えるんだもの。
その後何度もぽん引きにゃ騙されたけれど、この時が最高齢だったな。

 そして、時代はバブルに突入。

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VOL.16 芸能界修行の終焉

 事件は、ある日いきなり勃発した。
時間は少し遡る。L.Aでのレコーディング現場。
スタジオ内にはギターの「スティーブ・ルカサー」ドラムスの「ジェフ・ポーカロ」キーボードは「スティーブ・ポーカロ」バックコーラスの「ボビー・キンボール」ベースは「エイブラハム・ラボリエル」錚々たる顔触れがセッションを行なっていた。ベースのエイブラハム以外はみんなTOTOのオリジナルメンバーだ。ドラムスのジェフはこの数年後に死亡した。死因は謎に包まれている。おそらくコカインのやり過ぎだ。
さて、事件の火種はセッションの合間のブレイクタイムに起きた。実際はテリーの通訳、もしくはコーディネーターの通訳を介して交された会話だったのだが、めんどくさいので、直接会話の形式を採用する。

ボス:「オー!ユー達、最高にロッケンロールだね!! かぁー俺はしびれたねー。実はさ、来年春に東京音楽祭ってのがあるんだけど、ユー達その時テリーのバックバンドやってくれないかね?」メンバー達「オオ、ナイスだね。東京に行けるなら喜んでやらせてもらうよ」と、口々にメンバー達は言う。たかだかセッションの合間のブレイクタイムの無駄話だ。
しかし、完全に間に受けてしまったボスは急遽、日本のTBSの某Pに電話した。そして、来年の東京音楽祭にはTOTOのメンバーが出演する事が決まったと伝えた。そう、伝えてしまったのだ。この後とんでもない事になる。

翌年、東京音楽祭を二ヶ月後に控えたある日、グラミー賞受賞の模様がニュースで伝えられた。
「TOTO、7部門で受賞!!」
日本でも大ニュースだ。それまでは単なるスタジオミュージシャン集団と思われていたTOTOが、エンターテイナーとしても認められたのだ。しかも全世界的に。
そして、そんな事態にもボスは全く動ぜず、TOTOが東京音楽祭にやってくると信じていた。
なんと、TBSでは東京音楽祭告知のTVスポットに・・・当日はTOTOが特別出演・・・というテロップを流した。流し続けた。しつこいほどに。開催される中野サンプラザのチケットは無料だったが、抽選倍率は500倍に跳ね上がった。気を良くしたボスは興行も組んだ。当時渋谷で一番でかいライブハウス「Live in 80」での凱旋コンサートを決めた。無論、バックはTOTO・・・のつもり。
そして、一ヶ月前、LAのコーディネーターを通じて最終確認。
返事は「No Way」あり得ない。
グラミー受賞した直後になんでバックミュージシャンごときで天下のTOTOが日本に行くのか?契約はあるのか?相手にもされない。もう、全く逆立ちしてもバック転しても、のたうち回っても無理。限り無く無理。もはや、TOTOのトイレでも後ろに並べるしかない。
そして、この事実を知ったボスはある日、行方知らずとなった。
そして、僕は逃げ場を失った。
そんな時でも、毎日TBSのテロップは流れ続けた。

もはや一刻の猶予も無い。急遽僕はアメリカに飛んだ。今一度TOTOのメンバーを口説く為に、そしてどうしても無理な場合、替わりのミュージシャンを探さなければならない。TOTOのマネージメントは端から相手にもしてくれなかった。鼻で笑われたようなものだった。
少ないつてをたどってようやく見つかったのは、当時、オリビアニュートンジョンや、シーナイーストンのバックミュージシャンとして活躍していたドラマー、マイクベアードただひとりだった。この時点でまだTBSにはナイショ。開催日の前々日までLAで粘った。しかしもはや刀折れ矢尽きた。マイアミにでも逃げちゃおうかな。ちんたらコカインでも売ろうかな・・・。なんて夢を見ながら帰国の途に着いた。既にTBSにはレコード会社から知らされていた。TBSの通称「ギョロなべP」が激怒しているらしい。
深夜、成田から直行で赤坂のTBS会館に飛び込んだ。今とは全く違う薄暗く狭い廊下を会議室に向かって歩く。視線の先にドアから漏れる光が見えた。真夜中の一時過ぎ。
会議は進行中のようだ。
コンコン・・・ノックする。
「・・・・・・」無言。
おそるおそる扉を開ける。
会議室の中、コの字に座る無言の視線が一斉に僕に向かって刺さる。
中央に座っていたでっぷりと太った、今で言うならばメタボ怪人のような巨体がゆらりと立ち上がった。そして、会議室がびりびりと震えるような声で叫んだ。
「か、上条はどうしたーーーーーー!!!!!!!!!!」
その直後、僕の耳の横を何かが掠めて後方に飛び過ぎ、がちゃーんという音と共に割れた。寿司屋で出すような重厚な湯飲みだった。ギョロなべPは目の前に並べられた湯飲みや灰皿を次々に僕に向けてぶつけて来た。狙い定めて。確実に当たるように。
その飛来してくる物体を避けながら僕は土下座のままコの字テーブルの中央に向かっていざるように進んだ。「申し訳ありません、申し訳ありません」ひたすら呪文の様
に叫びながら。
「お前!この始末どうつけるつもりだーーーー!!!!!!」ギョロなべPはひたすら吠え続け、茶碗を投げる。
幾つかの湯飲みが頭にぶつかり割れた。額から血を流しながら頭を床に擦り付ける僕。
田辺のマネージャーが間に入ってくれて、ようやくギョロなべPは椅子に座った。はあはあと肩で息をしながら。
この年の東京音楽祭には特別ゲストとしてライオネルリッチーの出演が決まっていた。
しかし、TOTOの人気は確実にそれを上回っていたのだ。いきなりぶっ飛んだ番組の目玉企画・・・。今考えてもとんでもない事をしでかしてしまったのだね。思い出したら胸がドキドキしてきた。
結局、この時からこの業界抜けるまで、ボスとは顔を合わせていない。おっさん逃げちゃいましたね。
やってきました、東京音楽祭当日。
受付横にひとつの机が置かれた。その机に僕は座り、来る人来る人おそらく3000人近い人達に頭を下げ続けた。机の下には「都合により急遽TOTOの来日は中止となりました」
全く同じ事を翌日「Live in 80」でも行ない、こちらはチケットの払い戻しをした。
その時の箱のマネージャーはレスラーのような巨漢で、僕は首を絞められながら空中で足をバタバタさせた。殺されてもおかしくなかったね。
そして、その日からTBSの受け付け横には「犬と上条並びに鈴木出入り禁止」のはり紙。

さすがにこの一件で嫌になった。なんとかこの業界から足抜けしなければと思った。
ヤクザのような借金取りは毎日やってくるし、スケジュールはこなさなければならない。ついにサラ金会社も潰れてしまった。後ろ楯の全てが消えてしまった。テリーと二人、途方にくれてしまった。
そんな時、再び赤坂のカツマタさんに拉致られてしまった。またまたヤスナカと二人で天下一ラーメンを啜る。しかし、今回ばかりは僕もボスの行方は皆目わからない。
それでも目の前に電話を置かれ、片っ端から上条の知り合いに電話を掛けさせられた。
そうは言っても僕も知らない。幾つかの雀荘に電話をしたら後が尽きてしまった。仕方ないので、友達に電話を掛けまくった。相手が何か言う前に「すみません、そちらに上条さんいないでしょうか?・・・ああ、そうですか、わかりました。じゃ失礼します」友達はみな「?????」
そんなこんなで夕暮れ。僕が全く役立たずだという事が分かったらしく、カツマタさんは許してくれた。そして、僕を伴って当時ではまだ珍しかった赤坂の韓国クラブに連れて行ってくれた。僕のなにを気に入ってくれたのかいまだに判らないし、その後一度も会っていないが、帰りがけに三万円くれて「なんかあったら相談に来い」と言って僕は解放された。

テリーの最後の仕事がハワイツアーだった。ハワイの「WAVE」というクラブで一週間ライブ演奏を行なうのだ。メンバーのジェフ、リチャード、ビルともこのハワイツアーまでの契約だった。
ハワイに到着してすぐにヤツ等が取った行動は、ヤクとオンナの調達だった。三ヶ月に及ぶ禁欲生活で発狂寸前だったようだ。ホテルのベッドの上にはありとあらゆる薬がぶちまけられた。コカインスティック、ガンジャ、ハッシシ、ヘロインの錠剤、薄いビニール片のようなエルその他見た事も無いような様々なおくすり。プラス、パツキンネ−チャン達。このハワイツアーでは一度も海を見なかった。毎日夕方に起きて飯を喰い、クラブに行って夜中まで演奏する。それから、朝方ホテルに戻り、延々とドラッグアンドアルコールパーティ。今さら、僕がドラッグに手を染めたかどうかはどうでもいいことだが、結論としては、酒が一番だと思う。 

さて、このツアー中僕が考えた事は、このままテリーを日本に帰してしまうと、ボスが売り飛ばしてしまったテリーの営業権がなんらかの形で発現し、最悪身に危険が及ぶ事もありうるという事だ。テリーとも相談し、彼女がしばらく日本に帰らなくても良いようにしなければならない。少なくとも一年以上。様々な手を考えて奥の手を使った。これは、まあ時効だろうけれども法律に関わるので書けない。まあ、いずれにしてもこのツアー終了と共に外人メンバー達は本国に帰り、テリーとは空港で別れた。
そして僕とキヨミは二人で帰国した。これでともかく全てが終わった。芸能界からは完全に足を洗った。

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VOL.16 帰国 船橋タコ部屋暮らし

 ちょいと虫の居所が悪い。現実の世界で腹が立つ事が多過ぎる。
誰か刺したい気分。ぶすっと。
 あのさ、いじめなんて三人以上集まりゃ必ず起きる。学校だの教師だの、ましてや教育委員会など関係なく(日教組なんざありゃウンコ以下だ。こいつらが今の学校を最低に落とした)見つからないところで毎日繰り返されている。新聞やテレビの馬鹿共がしたりがおでぐちやぐちやご大層な意見を述べているのを見るとホントやるせない。何故テレビをぶちこわしてもこいつらは死なないのだろうかと。テレビが壊れるだけだ。ガキが一人くたばれば視聴率が上がる。スポンサーが喜ぶ。ディレクターはにんまり。編成局長は酒盛りだ。フジも日テレも馬鹿テレ朝もTBSもみんなおんなじ。いじめも自殺もいずれニュース性が薄まりゃブラウン管から消える。現実はそれでも消えない。続いていく。
 いじめと自殺は別の問題だ。どんなに学校で虐められていても親からホントの愛情を掛けられていたら人は死なないね。自殺は鬱病だ。病気なんだ。治療が必要なんだ。
がんばってるんだよ、どいつもこいつも。なのにガンバリが足んねえだのだの、根性がねえだの抜かすな。腹が痛けりゃ頭が痛けりゃクスリ飲むだろ。脳の中のシナプスが異常起こしてるんだから治療しなけりゃなおらねーよ。それすらも察知できない馬鹿親が子供死なしてしまうんだ。てめえが産んだガキなんだから社会や常識なんぞに惑わされずにきちっと見やがれ。
・・・一昨日死ぬ寸前までいった。クスリを飲むのも面倒くさかった。ただ、ガキに飯作ってやんなきゃならんかったから、クスリを飲んだ。抗うつ剤をいつもの三倍量。それで助かった。自殺衝動は病気以外のなにものでもない。

 追いつめられると死にたくもなる。でも死なない。なんとかなるものよ。
ヤクザの事務所から開放された後に、僕は当時池尻大橋にあったポリドールレコードに向かった。仮TDの音源を持ってT常務を訪ねたのだ。T常務はTBSの演出部から天下ってきた人だ。ばっきばきの業界人。小柄でごま塩頭のまるで下町の桶職人みたいな人だ。口調はべらんめえで、なぜか意味もなく頭をはたかれたものだ。おそらくもうくたばっているだろう。その常務にLAの音源を聴いてもらった。当時のポリドールレコードはジュリー沢田研二が流星を極め、今じゃカス会社だがはその頃は一流のレコードメーカーだった。今回のアルバムはテリーのビクターから移籍後の第一段アルバムだった。
早速試聴室で音源を聴いたT常務は顔をしかめた。
「ケンジよー、こんなんじゃ売れねーよ」
「いや、今の音楽業界でこれだけの音作っている歌手はいませんよ。必ず話題になるはずです」
「だから売れねえんだよ。洋楽のヒットなんて過去の事だ。ニューミュージックか、じゃなきゃ歌謡曲なんだよ。こんなバタくせーもん、誰も求めちゃいねえんだよ」
 この会社からなにがなんでも1000万円からの金額を出させなきゃならない使命を帯びた僕は必至に食いさがった。
「常務、この音がわからないようじゃ音楽の仕事なんて辞めた方がいいですよ。これからアメリカポップスが大流行します。ロスで目の当たりにしてきました。絶対に売れるはずです。しかも参加ミュージシャンはアメリカの超一流スタジオミュージシャンです」
 とにかく必死に理解してもらおうと僕は頑張って力説した。
「てめえ、えらそうな講釈垂れてんじゃねーよ。じゃ売れなかったらどうすんだよ。おめえ、そこの目黒川に飛び込んで死ぬか」
「川底が30センチしかないんで死ねないとは思いますが、ドブ水飲んでくたばってみせますよ」
「おお、よくぞいいやがったな。わかった。わかった。これからお前BーニングのSん所行ってくれ。大体のナシはついてる。ポリドールのTの使いで来ましたっていうんだぞ」
皆目意味が分からない。が、単なる小僧としては言われるがままにするしかない。Bー
ニングという会社は郷ひろみの所属事務所だという事くらいしか知らなかった。
 S社長はやさしそうだった。
「で、なんだ。おめえが上条んところの小僧か。赤坂の○○興行じゃ、えれえ目にあったらしいな。上条が俺んところに泣きついてきやがったんだ」
「・・・・・・」この人は何者だ?
「まあいい。おめえは知らなくていい。この封筒持ってもう一度Tさんの所行ってくれ・それで話は終わりだ」
「・・・・はい」
「おい、てめえ陰気な目してんじゃねーぞ」
そう言われていきなり頭を思いっきりどつかれた。
「すみません、生まれつきなんで」
「口答えしてんじゃねーよ」
もいちど頭をどつかれた。
ともかく訳も分からずもう一度、ポリドールに向かった。
T常務は封筒の中の書類を確認すると言った。
「あした、経理に行け。ナシは通ってる。現金で受け取って持って帰れ。んじゃな」
 当時の音楽業界ではこんな乱暴なやりとりが通用したものだ。おそらくS社長がなんらかの金額を肩代わりしたらしい。良くは知らない。なんだかんだで、上条のボ
スは色々なプロダクションの社長に可愛がられていたようだ。確かに愛すべきキャラクターだとは思う。詐欺師だが。今の音楽業界にはこんな人はいないね。良くも悪くも音楽業界人は優等生でイイ子の集まりになってしまった。所詮はタレントに稼がせてあがりを掠める商売だ。もつと博打で良いのだと僕は思う。東大まで出てレコード会社のディレクターなんてやってんじゃねーよ、と思う。誰だとは言わんが。理屈ばっか抜かして音楽知識もなく、というか音楽自体を愛していない。どいつもこいつも予算の達成だけに四苦八苦。馬鹿だわ。ホント。CDが売れないのも分かるってものよ。
東芝同様メジャーメーカーはさっさと失せてしまえ。
 なにはともあれ、お金は出来た。その日の内にロスのコーディネーターに送金した。
ボスの口座が無いこともさる事ながら、ボスに渡したら借金の方で霧消するか、そのままベガスに飛ばれてしまう。なので、レコーディング費用の管理を行なっているコーディネーター会社に送金した。
 そして、無事全ての行程が終了し、一ヶ月後一行は帰国した。ベースのジェフ、キーボードのリチャード、ドラムスのビルを伴って。
 その日からジェフ、リチャード、ビルと僕の四人の奇妙な共同生活が始まった。船橋の風呂もついていないアパートで。早速簡易シャワーを買った。しかし、とんでもないアパートだったな。八条の畳の部屋に布団を敷き詰めてみんなでそこで暮した。
一階はスナック。・・・まるで今の僕の境遇と同じだな。実はわけあって現在中学一年の長男と二人暮らしをしている。町屋というクソ汚い街で。斎場が近くにあるので毎日黒服の集団が闊歩する実に陰気な街。そして、住んでいるアパートの一階がカラオケスナック。毎晩毎晩クソ下手な歌が大音響で流れている。来る客が殆ど毎晩同じらしく、レパートリーもおんなじなので、毎晩毎晩同じ曲を聴かされる。音程が少しでも狂っているとムチャクチャ気持ち悪くなるってのに、半音以上違う馬鹿クソ親父共のムード演歌を聴かされ今殆ど気が狂いそうになっている。昨夜は思わず収納スペースの扉をボコボコにぶったたき、蹴っ飛ばし穴だらけにしてしまった。息子はその光景を半ば呆れつつ震えながら見ていた。家庭内暴力親父・・・。
 それはいい。実に奇妙な四人暮らしだった。まず言葉が通じない。多少の英語は分かるが、少しでも複雑になると皆目わからんちん。奴等は口々に環境の改善を訴えていたようなのだが、もう無視。一階のスナックのママがどうやらサラ金会社の社長の愛人だったらしく、昼飯晩飯は毎日スナックでご馳走になった。おまけに酒も飲み放題だったので、かなりのボトルを開けてしまった。なにしろガイジン共は鯨飲だ。底なしだ。で、なんとジェフがこのママに惚れてしまった。毎晩甘い英語で口説きまくっていた。確かに髪の毛が長くて痩せていて、目が大きくて美人なママだった。のちのち判明するがジェフはとにかく惚れっぽいのだ。船橋での生活では周りにママしか口説く相手が居なかった。単にそれだけの事だったようだ。・・・しかし、ママから叱られた。「変な日本語ばっかり教えてるんじゃないわよ、なによ、お○○ことかカッポンとか、バカじゃないの」いやはや。
 二三日落ち着いた所で、みんなを連れて六本木の事務所に出掛けた。総武線に乗っ
て。
ジェフは電車の中でも女子高生に話しかけていた。「あなたのお○○こが欲しい」とかなんとか。殆どシカトされていたね。リチャードは無口で窓の外をただ眺めていた。ビルは・・・席を譲ってもらって座っていた。目の前に女子高生が数人座っていた。ビルはニコニコと笑いかけ(愛嬌のある顔なんだわ)自分の片足を指さすとその足をいきなり一回転させた。女子高生達、唖然呆然。ホントお茶目な身障者。

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VOL.15 ヤクザに監禁中

 カシラのカツマタさんは一言「客扱いしとけ」と言い残してくれたので、僕は椅子に縛られることも、ムチでしばかれる事も三角木馬に座らせられることも亀甲縛りもなく・・・あれっ?
 まあ、実に中途半端な軟禁状態で八時間あまりを過ごすことになった。
ヤスナカは精いっぱい虚勢を張るように僕を睨みつけていた。こいつの身長はおそらく185センチくらいあったと思う。僕よりも20センチも高い。そしてマル坊主、眉そりそり。はっきり言ってかなりヤバイ容貌。だけどね、この時すでにアンパンのやり過ぎで歯は黒く、抜け落ちているのも何本かあって、どう見ても間抜け面なんだな。
このままヤクザ稼業やってても出世する見込みはかなり薄い。いいところ鉄砲玉だ。
 なるべく刺激しないように少しずつ話しかけた。
「あの、咽喉が乾いたんだけど・・・なんか買ってきてもいいかな」
「だめっす。今麦茶持ってきます」
「あっそ」
茶碗に注がれた色の薄い麦茶。
「・・・・・・・・ごくり」
 まだ外では蝉が鳴いていた。既に9月半ば。隣の部屋では何人もの人が出入しているらしい。扉が開いたり閉じたりする音が聞える。ラジオから流れる競馬中継。競馬も競輪も僕はやらないので何処で開催されているのか分からない。エアコンの室外機が壊れそうな唸りを上げている。まだまだ暑い季節。LAも確かに暑かったのだが、空気が乾燥しているので室内はエアコン無しでも結構過ごしやすかった。数日前の出来事とは思えない。
 帰国して間もないからとんでもない時間に意識を失いそうになるくらい眠くなる。
時差ボケだ。まさにこの時の沈黙状態では、後ろから強引に引っ張られるような眠気に襲われていた。さすがに眠ってしまって気が付いたら海の底でした・・・ごぼごぼってのは厭なので必至に睡魔と戦っていた。
 テーブルの横のラックには週刊誌が何冊か突っ込まれていた。週刊アサヒ・・・と言っても週刊朝日ではない。この業界でアサヒと言えば間違いなくアサヒ芸能だ。それと週刊大衆。毎号ヤクザ関連がトップページを飾る実に正しくえげつない週刊誌だ。
それを手に取りぱらぱらとめくる。ヤスナカは黙って見過ごしている。
「うわっ・・・木之内みどり、ツグトシさんにやられちゃったんだ(竹中直人さん、古い話でごめんなさい)・・・おっ、有名女子大生おっぱいぺろり・・・だって。かぁーったまらんね」
「じょ、女子大生っすか」
思わずページを覗き込むヤスナカ。おそらくこいつは童貞だ。
キッカケを掴みすかさず問い掛ける。
「あのさ、この稼業に入って得した事とかある?」
「大変ッス。じぶんまだ見習いなんで」
「カツマタさんて怖そうだね」
「・・・・」
ヤスナカ再び口を閉ざす。
「ところで、俺、帰れるんかな・・・」
「じぶん、わからないっす。カツマタさんは怖い人っす。イワサキの兄貴に聞いたん
すけど、耳や鼻をオトス事くらい簡単にやっちゃうらしいっす」
「へ、へええ、耳とか、は、鼻とかオトシちゃうんだ。そりゃ、えぐいね」
「で、でも、じぶんらにはやさしいっす。・・・裏切れないっす」
 ヤスナカにはどんなに優しくても初対面の僕には関係ない。ああ、ボスよ、はよ電話くれ。この場から一刻も早く開放してほしいっす。
「あ、あの、腹減りませんか?」
ヤスナカが聞いてきた。「祝・贈」と書かれた鷲だか鷹だかの立派な彫刻の施された時計を見るとすでに1時半だった。確かに空腹感はあるのだが、食欲は湧かなかった。
そりゃそうだ。ボスがばっくれた時には下手したら、鼻とか耳とか落とされて、海の向こうに送りつけられるかもしれないのだから。ああ、鼻から息が吸えるって、なんて幸せ。
「うーん、腹は減ってるっちゃあ減ってるんだけど」
「出前、取ります。自分、天下一のスタミナラーメン大好きッス」
憎めないヤツ。食い物を前にして人は本性をさらけ出す。こいつはおそらく親には邪険にされたかもしれないが、可愛がってくれた肉親がいるのだろう。そういう笑顔だ。しかし、この稼業には向いてないと素人ながら思うよ。
「天下一ね。うーむ・・・じゃ、チャーハンでいいや、俺」
 天下一ラーメンは当時珍しくチェーン店だった。西麻布の交差点にもあった。ラーメンは、単なるラーメンでしかなく、駅の蕎麦屋で喰うのと殆ど同じだった。店の裏には業務用スープの一斗缶が幾つも転がっている。そんな店。今も変わらず。それも伝統かね。焼き肉ラーメンが友達の間では人気が高かったが、スープで食わせるというよりは、豚のバラ肉の脂で食わせる代物だった。表面には1ミリくらいの透明な脂が浮く。でもね、ラーメンなんてものは当時そんなものだった。外苑前のホープ軒のラーメンを初めて食べたとき、あまりの上手さに感動したものだった。今は・・・おそらく一日か二日胃がもたれるだろう。その当時、オールナイトニッポンのゲストにテリーが出演した時の事だ。直前まで神宮外苑のビクタースタジオでレコーディングしていたので、スタジオ入りの前にホープ軒でニンニクをたっぷり入れてラーメンを喰った。その時のパーソナリティはアルフィ。スタジオにテリーと入った瞬間、有楽町の銀河スタジオではみんながパニックに陥った。「うおおおおおおおおおおおおお、なんじゃこの臭いは!!!!!!!!!!!!!!」
・・・ザマミロ・・・・
 ヤスナカと二人で出前のラーメンとチャーハンを食った。スタミナラーメンは簡単に言うと餃子の中身を麺の上にぶちまけたもの。部屋中にニンニク臭が充満した。若いってニンニクだよね。なんだか分からないけれど。葷酒山門ニ入ラズ(クンシュサンモンニイルヲユルサズ)禅宗の教えね。ニンニクだのニラだの喰って精力付けて酒呑んで女体の妄想にふけってはあきまへん、という意味らしい。まっヤクザには無縁の教えだ。
閑話休題。

 

で、憂国も迫る・・・じゃねーよ、夕刻も迫る頃、漸くボスから電話が入った。現地時間真夜中の一時過ぎだ。確か夏時間だったから。この事務所に電話をしてくる前に、おそらく方々に電話をかけて借金を頼んだか、この事務所の上部団体に渡りを付けていたのだろう。その間に何が執り行われていたのかはいまだに知らない。知る気もない。ボスからの電話の後に、実にあっさりと僕は解放された。しかも3万円入りの「お車代」を貰って。どういう意味だ?と思ったが、詮索はしない。まっ警察への口止め料だったようだ。
 しかしね、こんなのは嵐の前兆よ。この後の数ヶ月間に起こった事はそれだけでサスペンスバイオレンス感動巨篇になるくらいにすさまじかった。   つづく。

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VOL.14 ヤクザに拉致られる

 東京に戻って事務所に行くと、社長と専務が僕を待ちかまえていた。いわゆる苦虫を100匹くらい噛みつぶした顔をして。
「ケンジ!!上条のおやじはどうしてんるんじゃ!!」
「どうって・・・レコーディングやってますよ。真面目に。あの・・・なんかそれでレコーディングの資金が乏しくなってきたらしくて・・・それで、あの、まあ僕が帰ってきたわけなんですが・・・」
「あほ!!なに寝ぼけた事抜かしとるんじゃ!!レコーディングっちゅうのはそんなに金が掛かるもんなのか、既に3000万円越えとるんじゃ!!」
「一流ミュージシャン使ってるんで、まあ掛かっちゃってんすかね」
しかし、今考えても掛かり過ぎである。当時がプラザ合意前の一ドル360円換算の時期だとしても、冷静に考えればその半分ぐらいで済む筈だ。
「あのな、ウチの金主筋からの話なんだがな、上条のおっさんな、いたる所で博打の負け金を踏み潰しているらしくてな。今帰ってきたら間違いなく身体バラバラにされるわ。肝臓も腎臓も角膜も何もかも売っぱらわれて、跡形もなくなるわ」
専務が言うには毎日六本木近辺を縄張りにしているTS会という暴力組織の下部組員がボスを探し回っているとの事だった。
どうやら渡米前にレコーディング費用である3000万円の内のかなりの分を博打に費やしてしまったようだ。つまり渡米の理由はつまる所ボスの借金踏み倒し逃亡ツアーだったのだ。レコーディングはその為の大義名分。今では確かに考えられない贅沢レコーディングであった。大ヒットを出しているアーティストならともかく、売れてないアーティストが海外でアルバムレコーディングを行なう場合、その行程は一週間から掛かっても二週間が限度だろう。一日に3曲のリズム録り、ダビングに2日、歌入れに一週間。
一日やはり3曲ペース。泊まりは一泊70ドル程度のモーテル。今ならばTDは任せてあとはネットのファイルのやり取りで済ませる。余談になるが、現在はハードディスク1台持っていけば充分。当時は24チャンネルのアナログテープをアルバム分ならば3本から4本持っていく。厚さは2インチだから巾6センチくらいか。一本のテープの重さが2キロ近くある。それを何本も持っていくのだ。で、出国と入国の持ち物検査が厄介だった。当時の検査はX線と強力な磁気を使用していたのでアナログテープを通すと録音されている音が消えてしまう事がままあるのだ。なので、執拗に「No X-rayPlease」を連呼しなければならなかった。
僕が帰国した時点で既に二ヶ月が経過していた。つまり二ヶ月間ボスは逃げているわけだ。やれやれである。
音楽業界の知識が皆無の、サラ金会社の社長と専務は結局はボスにいいようにやられてしまったのだ。さすがにこれ以上資金導入する気はないようだ。まあ、笊だし、ドブ金状態ではある。国際電話でこの件をボスに話すと、案の定電話口でキレた。当時の国際電話は会話が遅れる。キレているボスは僕が話している途中から喚き始めるのでぶちぶちに音声が途切れ、もうなんか獣が吠えている状態。何を言っているのかさっぱり解らないので途中で受話器を置いた。しかし、この頃はまだボスに対して忠誠心があった。なんとかしなければならないと思ってしまった。馬鹿だよね。・・・で、ある日、出社中六本木を歩いている時に僕はヤクザに拉致られ、連れ去られてしまったのだ。
なんと、サラ金会社の同僚(?)にチクられたのだ。つまりボスを探している組に、僕がボスの居場所を知っているという事を喋ったらしい・・・。所詮は暴力金融。ヤクザと同じくそったれだ。
車に乗せられ赤坂のマンションの一室に連れていかれた。こんな機会も滅多には無いことなので、つぶさに観察した。なんでかね、結構冷静だった。既にこの頃はボスの影響と暴力金融会社での激烈な勤務によって、闇世界と暴力には麻痺していたのかもしれない。
 事務所の入り口には出前のラーメンの丼が重ねられている。残ったスープの脂が白く固まり、縁には乾いた麺が残滓のようにこびりついてた。天下一ラーメンだった。
ドアを開けるとさらにもう一つ頑丈な扉がある。まるでレコーディングスタジオだ。そして、のぞき穴で確認された後、中から扉が開けられた。中は10畳くらいの事務所。
奥にもう一部屋。壁には立派な神棚と関連組織の名前の提灯がずらり。革張りのソファに事務机が3つ4つ。ホワイトボードには競馬場と競輪場の名前、開催日付と意味不明の数字がびっちりと書き込まれていた。その下にカタカナの名前が書かれた無数の紙が貼り付けられている。そんな光景を、ほぉ、と思いながら眺めていたら、肩を掴まれて奥に進まされた。もう一つの部屋を肩を掴んでいた男がノックし、言った。
「カシラ、連れてきました」
・・・うおお・・・カシラかよ。いわゆる若頭ってやつだな・・・
「おう」とカシラさんが答える。
ドアを開けると・・・社長室にあるような立派なデスクに両足を乗せてスポーツ新聞を読んでいる痩せた銀髪七三のカシラさん。スリーピースの背広に幅広のネクタイを締めた姿は見た目は普通のダンディなビジネスマンである。年齢はおそらく40代後半。角刈りでもパンチパーマでもない。しかーし、眼が違う。完ぺきに堅気ではない。頬には深い傷痕。脱ぐと背中にはモンモンが入っているのだろうな。じっと僕を見つめる。思わず頭を下げる僕。
カシラさんはとてもとても優しい声で、僕に言った。
「すまないね。こんな所に連れてきて、さっ座りなさい」
そう言うとデスクの前のソファを指さした。
僕を拉致してきた男に眼だけで出ていけと指示し、カシラさんは僕の前に座った。
小さくなりながら僕もソファに座る。目一杯素直でつぶらな瞳をして。
しばらく何も言わないカシラさん。一旦座ったかと思うとまた起ち上がってデスクに戻った。タバコを取ってきたようだ。タバコはJPS。ボックスから取りだし銜えると僕に箱を差し出した。すかさず遠慮する僕。もう一度ぐいっとタバコを差し出される。
断れる状況ではないので右手を伸ばしボックスから一本つまむ。しかし手が震えている。その瞬間、右手首を掴まれた。ものすごい力で引っ張られた。そして、カシラさんはタバコのボックスをテーブルの上に置くとポケットに手を入れた。
・・・あっ、手刺されるんかな・・・びくっとした。しかし、その手には金ぴかのライターが握られていた。キンッと蓋を開け、シュコッと火を付ける。その間カシラさんは一言も喋らず僕の目を見据えている。正直怖かった。なんというか暴力的な臭いの質が、ボスやサラ金会社の連中とは明らかに違うのだ。当時のヤクザは今のように経済ヤクザではなく、始終牙を剥き、連日抗争事件を起こしていた。六本木や赤坂ではまだ韓国系の組織が介入する前だったので、国内の、特に関西系の進出に伴う衝突が日常茶飯事だった。その眼に見据えられ震えていると、
「火・・・付けてやるよ」そう言いながらライターの火を僕の顔に近づけてきた。いきなり掴んでいた右手を放された。同時にタバコが指から落ちた。タバコはころころと転がりテーブルの下に落ちた。拾おうと身を屈めた途端、目の前のテーブルが横に吹っ飛んだ。テーブルの上の受話器が転がり、ガラスの灰皿が壁にぶつかって割れた。
カシラさんが蹴っ飛ばしたのだ。そして、その足は屈んだ格好の僕の首筋の上に乗っけられた。僕の頭は床に押し付けられた。カシラさんは悠然と自分のタバコに火をつけライターをポケットにしまった。
「すまんな、おにいさんにはなんの責任も無いのは知ってる。だけどな、こっちも仕
事なんだ。正直に上条の居場所教えてくれよ。そうしたらすぐに帰れる」
端から隠す気は無かった。なにせ海の向こうである。
「か、上条さんは今、ロスにいます」
「そういう噂は確かに聞いた。じゃあホントなんだな」
床に押さえつけられ呻きながら僕は答えた。
「はい・・・今ロスでレコーディングしています」
ふっと頭が軽くなった。カシラさんはボフっとソファに座った。
「で、いつ帰ってくる」
「レコーディングが終われば・・・」
「今から電話をしろ。上条を電話に出せ」
午前中の出来事だった。ロスは今夕方だ。家にはいない。スタジオに入っているだろう。
「今は居ないかも知れないのですが・・・」
「いいから掛けろ!」
「はいっ」
カシラさんは床に転がる電話を拾って僕の目の前に置いた。僕は受話器を取り上げ0051を押した。ピピポパ。オペレーターが出る。ロスの電話番号を告げた。するとこっちの状況も知らないオペレーターは厄介な事を聞いてきた。僕は一瞬迷ったが受話器を外しカシラさんに訊ねた。
「あのコレクトコールにしますか?」
実に間抜けだ。しかし、当時の国際電話は高いので負担を掛けてはまずいと思ったのだ。
「構わない。普通に掛けろ」
再びオペレーターにそのまま繋いでくれと告げた。カチッという切り替えの音の後しばらくしてから日本の電話の呼び出し音ではないくぐもったアメリカ独特の呼び出し音が鳴った。トルルルルル・・・・・トルルルルル・・・・・しばらく鳴り続ける。
呼び出し音と呼び出し音の間の無音がとても長く感じた。カチャッ、受話器を上げる
音がした。アチャッ、やべっ居たんだ。
「Hello」
んっ?誰だ?知らない声だ。
「あの・・・」
「well?Give' your name?」
「あー、うー、ユア、ユアテレフォンナンバー、トゥーワンスリーエイトエイトワン、××××?」
「No, wrong number」
「・・・・・そ、そーりー・・・」
がちゃっ。・・・うっわー・・・なんちゅうこっちゃ。
「どうした。いたのか?」
「あっいや、あの、電話番号・・・間違えてしまったみたいで・・・」
再び目の前の電話が吹っ飛んだ。カシラさんたら短気なんだから。
「す、す、すみません。もう一度掛けます」
搾り出すような声で言った。あたふたと部屋の隅に別々に吹っ飛んだ受話器と電話機を拾い再び0051にコール。
「コレクトコールにしますか?」
またもやこちらの状況を知らない暢気な問い掛け。むかっとしつつ、
「いや、そのまま繋いでください」
トルルルルルル・・・・・トルルルルルル・・・・・トルルルルルル・・・・・・一度目は出るなよと願ったが今回は誰か出て欲しいと切実に思った。なんとなく。トルルルルルル・・・・・・カチャッ
「ハロー」
ほっ、キヨミだ。居たんだ。
「おお、俺、居たんだ」
「ケンジ?今日こっち日曜でスタジオ休みなんだわ。おお、そういえばあのさ、お前が帰った日、ロンダが来て寂しがっててさ・・・・」
いや、もはやロンダはどうでもいい。いらつきながらキヨミの言葉をさえぎった。
「キヨミ、ごめん急いでるんだけれどさ、あのさボス今居る?」
「ボス、テリーとスタジアム行ってるよ。ドジャースの試合観に」
「・・・ああああ、そうなんだ。・・・・ちょっと待って」
送話口を押さえてカシラさんに向いた。
「今、出掛けてるみたいなんですけれど」
いきなりカシラさんは僕の手から受話器を取り上げた。
「おいっキヨミさんよ、ああっ?おまえ男かよ、女みてえな名前付けるんじゃねーよ、なにっ?俺の事なんかどうでもいい。名前?・・・・だまれっ」
カシラさんは受話器を外し僕に聞いた。
「誰だ、こいつは」
「えーと、ギタリストなんですが」
「生意気なガキだな」
・・・ぷっ、いや笑ってる場合じゃない。
「おいっギター弾き。上条が帰ってきたらすぐに○○会のカツマタまで電話するように言え。それまでこいつは帰さねえから」ガッチャーンーンーンーン!!!!受話器が叩きつけられた。今ごろキヨミはキレてる事だろう。
ドジャースの試合が終わるまで僕はここから帰れない事に相成った。まだ試合は始まったばかりだ。アメリカは決着がつくまで試合は終わらない。終了が真夜中になる事もある。
「そういう事だ。しばらくここに居ろ。おーい、ヤスナカー」
ドアが開き傷だらけの坊主頭が後頭部を見せた。90度以上のお辞儀だ。
「はいっ、カシラっ!」
「こいつ、しばらくここの部屋で見てろ。向こうの部屋には連れていくな。ショカツが来ると面倒だ。俺はカイシャに行ってくる。上条から電話があったらな、そのまま切らずに俺が帰ってくるまで待たせとけ」
カシラさんはそう言うとそのまま部屋を出ていった。
それからの時間が長かった。結局ボスから電話が掛かってきたのは八時間も後の事だっ
た。ドジャースの相手がどこか知らないが、試合の行方を海の向こうでびくびくしなが待っている青年がいた事など大リーガー達は少しも知らずに何時間もボールに戯れていたのだ。だから野球選手は嫌いだ。ガイジンは嫌いだ。いまだに野球全般大リーグも全く興味が持てないのはこの時のトラウマか。いや、サッカーもか。っつーかスポーツ全般全く興味無いんだわ。あれもセックスとおんなじで人がやってるの観るより自分がやる方が気持いいと思う。そんな事言ってる場合じゃないね。しかし、実はこの事務所にはそれから数ヶ月後再び来ることになるのだ。更に言うとこの時の坊主頭のヤスナカ、本名安中・・・下の名前は忘れたが、こいつとは数年後に出会い、妙ないきさつで舎弟のようになってしまったのだ。当時は18才。死んだのは・・・23才だったかな。五年後に死ぬとは目の前の坊主も僕も知らないんだな。しかしつくづく世の中とは縁だな、やっぱり。

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VOL.13  メンバー探し

今回の渡米の目的はレコーディングともうひとつ、キヨミのギターを中心に他メンバー全員アメリカ人のヤンキーバンドを結成しようというもくろみがあったのだ。メンバーの人選はキヨミと僕に一任されていたので(ボスはとにかく見た目ヤンキーなら良い、という実に乱暴な選択肢)僕らは毎晩のように市内のクラブを見て周り、ブックマネージャーと親しくなり情報を集めた。Rock a GOGO! Roxy トゥルバドール、マダムウォンイースト&ウエスト、他さまざまなクラブに出入した。しかしこの時気付いたのだが、本場だからと言ってみんながみんな巧いという訳じゃないのね。確かに当時の日本人ミュージシャンに比べればパワフルではあるけれども、テクニシャンはなかなかいない。結構難航した。
 さて、どのクラブでも僕らはもてはやされた。それは何故か、コスチュームに凝ってみたのだ。ジーンズにTシャツ、その上に日本から持ってきた甚兵衛の上着を羽織り、頭には日の丸のバンダナ。そんな奇妙な格好したヤツは誰もいなかったから、どのクラブに行っても「サムライ」とか「ニンジャ」とか実にベタな声を掛けられ、とりあえず目立つことには成功した。当時のL.Aだから通用したが今じゃかる‾く無視されるだろう。

 最初に声を掛けたのはベースの「ジェフ」だった。長身で長髪金髪カール。なかなかの美男子。ベースプレイはどちらかというと当時のハードロック寄りだったが、グルーブ(当時はビートと言った)が抜群に良かった。人懐っこく僕らともすぐに打ち解け、初めて行くことになるであろう日本にとてつもなくデカイ夢を描いていて、正直僕らは「?」だった。なにせジェフに言わせれば「ジャパンのガールはみんなジーンズなど履かず、スカートかキモノなんだろ?そして、家に帰ると床に手をついて挨拶するそうじゃないか・・・」そんな女性を僕らは見たことなかった。相変わらず戦前のイメージが根強く残っている街なのだ、ここは。今思うとL.Aはお洒落でもなく洗練もされていず、アメリカの殆どの地区と同じ用に単なる田舎町である。メキシコが近いせいかメキ文化が街やストリートの名前にも多く見られ、他の街よりも人種の数は多い。映画の街だから一見華やかだが、国際意識はあまりない。首都を問えばソニーかパナソニック。僕らの名前がホンダとスズキだったので二人ともバイクメーカーの御曹司だと思われていたが、めんどくさいのでそれで通した。帰国したらみんなにバ
イクをプレゼントする事を約束した。いまだに果たされていない・・・当たり前だが。
それと首都をトウキョウと言える人が少ない事、同時に日本の地図上の位置はハワイのすぐ近くか、もしくは中国大陸の端っこで自国の属国だと思っている人が沢山いた。
大日本国防尊王青年同士会(そんな団体知らん)が聞いたら日本刀振りかざしそうな事
を皆平気でおっしゃる。コーリアンは当時は殆ど進出していない。東洋人は中国華僑か、リトルトーキョーの二世三世が多かった。まあ、僕もヨーロッパのはじっこの方はいまだによく判らん。ポルトガルってどこよ?
 そんな状態だから僕らは散々みんなに嘘の情報を植え付けたものだ。例えば女の子を口説くときは「look me yourパイパン」とか「はめさせてください」とか「ヘイ!おま○こ落としたよ」とかもうシモネタ無茶苦茶乱発。大体はキヨミが教えた。あと、SEXは日本語で「ずっぽん」といい、別れたい時には「かっぽん」と言いながらハラキリの真似をする。
 ジェフは我々の馬鹿な言葉を真剣に信じ、メモに取っていた。その後日本でヤツは何度も激怒していた。六本木では一度ももてなかったらしい。
 次に好はスリムの短いパンツに、アロハシャツ。いつも男物のキャノチェ帽を被ってい見つけたのがキーボードのリチャード。歯並びがやたらと奇麗な赤毛のアイリッシュ系。格好はスリムの短いパンツに、アロハシャツ。L.Aでは珍しいなかなかの洒落者だった。しかしこいつは我が儘で気分屋でいやはや大変だった。キーボードのチューニングも毎回気まぐれでその都度リハとは全く違うことをやりやがってハラハラしどうしだった。女性に対しては奥手で女問題は殆どなかった。しかし、根っからのクスリ好き。日本では絶対に手を出すなと
言っていたので時々禁断症状になっていた。
 最後のドラマーがなかなか見つからなかった。パワフル馬鹿が多すぎなのだ。
 ある日、マダム・ウォンというクラブに、ドラマー探しの事は忘れて単純に遊びに行った。キヨミとテリーと三人で。ステージの上ではガールズロックンロールバンドが演奏していた。当時の女性ロックシーンは、AORが主流でパワフルなロックシンガーは少なかった。それから間もなくランナウェイズを解散後のジョーンジェットが「ILOVE ROCK'NROLL」を大ヒットさせた。パットベネターはようやく世の中に知られ始めたころだったと思う。
 ジンソーダをガンガン呑みながらバンドも見ずに三人で盛り上がっていた。その時演奏していたガールズバンドはその後・・・・イギリスで火がつき大ヒットした・・・・名前が出てこない。思いだしたら又書く。でもなんか稚拙なバンドだなと思ったのが正直な気持ち。考えてみるとあの頃L.Aのクラブで演奏していた連中で後にブレイクしたアーティストは結構いた。ジョージマイケル、Heart、ケニー・ロギンス、等々。黄金の80年代ポップスの幕開けの時代だったのだ。
 さて、ガールズバンドのギグが終わり、次に出て来たバンドも女性ボーカルだった。
演奏が始まりすぐにキヨミと眼が合った。ドラムのキレがいい。エイトビートなのだがシックスティーンのビートが強い。見ると白人だ。黒人並のビート感だ。(今ではグルーブというのね)しかし、何かしら違和感がある。ハイハットとキックの絡みが妙に変則的なのだ。しかし、それが実にテクニカルに聞こえた。キヨミと二人でひたすらドラムスのプレイに集中していた。ボーカルの印象ゼロ。
 ステージが終わり、そのドラマーは自分のスネアドラムを持ち上げ退場するのだが、その時彼は全く動かない左足を引きずっていた。
 その頃には既に顔なじみになっていたマダム・ウォンのブックマネージャーの「ヤン」に、そのドラマーとの面会をお願いした。僕らは気のなさそうなテリーをテーブルに残し、ヤンに従いバックステージに向った。階段の下の控室の前で、ヤンが相手のマネージャーとなにやら話をしていた。言葉の端はしに「ジャップ」だの「イエローキッズ」だのと聞こえたが無視。相手のマネージャーは端から僕らを軽く見ていたよ
うだ。イエロージャップごときが何をのたまっておるのだ、という調子。いきなり僕が切れた。何故かキレテみた。「シャーラップ!ユーアーシュアファッキングレートマネージャー、ザッツアイノウ!バット ウイアーノットジャストファッキンキッズ、ノットモンキー、ウィアージャパニーズ!!」とかなんとか。言いたい事の十分の一も言えない。しかし、マネージャーは僕らの剣幕にちょっとたじたじしたようだ。そして、扉をガンと叩くと中にいるミュージシャンに声を投げた。「ヘイ!!ビル(日本語にさせてね)日本人がお前に興味を持ったんだと。ここにいるが会うか?」しばらくしてからドアが開いた。マイケル・J・フォックスを一回り大きくしたような風貌で度のきつそうな眼鏡を掛けた金髪の男が僕らの顔を交互に見た。そして、多分こんな事を言ったのだと思う。
「日本人には片足のドラマーがそんなに珍しいか」
ビルはそう言いながら左足のズボンの裾をめくり上げた。肌色の義足だった。
僕らはそれを見て唖然としてしまった。言葉を失った。片足が無いことの哀れみなどではない。なぜ片足で、最前見たばかりのあのドラムプレイが出来るのか。
「あなたが片足だというのは今初めて知りました。失礼しました。だけれどもそんな事はどうでもよくて・・・えーと・・・」気持ちが伝わらない。テリーを連れてくれば良かった。すぐに僕はキヨミをその場に残してテリーの待つテーブルに向かった。
そして、彼女の手を取ると再びバックステージに向かった。テリーは通訳として使われることをとても嫌うのだ。まあ、アーティストなのだから当然といえば当然だ。しかし、今回は違う。テリーのオリジナルメンバーを探しているのだから。階段を下りながらテリーに説明した。どうしても僕らの気持ちをカレ、ドラマーのビルに伝えたいのだと。
 テリーに言いたいことを伝えた。彼女がビルに向かって話す。
「彼らはあなたのプレイにとても興味を持ったようよ。片足があるとか無いとか関係ないわ。だってスティービーワンダーもレイチャールズも目が見えないから素晴らしいのではないでしょ。あなたも同じよ」後半はテリーの気持ちだろう。
「私たちは日本でプレイしてくれるミュージシャンを探しているの。あなたをドラマーとして日本に連れていきたいのだけれど、どうかしらって話なんだけど」
ビルはしばし無言だった。そして、退屈そうに様子を窺っていたマネージャーの胸ポケットからボールペンを引き抜くと扉に乱暴に数字を書きなぐった。そして、ぽんっ、とボールペンを放り投げ、再び扉を閉めてしまった。それを見ていたマネージャーが一言。
「やる気みたいだな。週給500ドルは約束してやってくれ」そして僕の肩をぽんと叩くと床に転がったボールペンを拾い上げ僕に手渡した。僕はポケットの中からライブチケットの半券を取りだし扉に書きなぐられたビルの電話番号を書き写した。
 こうして、片足のドラマー「ビル」の加入が決まり、新たなテリーバンドが誕生した。

 さて、レコーディングは順調に進み、後はトラックダウンを残すのみとなった。
「ケンジ、悪いが至急帰国してくれ」
 ある日の朝、国際電話を切った直後、ボスが言った。なんとレコーディングの資金が底をついてしまったのだ。何とか追加の資金を投入してくれるようにサラ金会社の社長に掛け合っていたようなのだが、社長は相当渋っているようだ。既にこの時点で3000万円近い金額が霧消してしまったらしい。要は今まで出来上がっている音源を
社長及び当時の契約メーカーであるポリドールレコードの連中に直接聴かせ、なんとか残りの金をふんだくってこい、と言うのだ。僕この時21歳です。交渉の使者としてこんなに役不足な者はいないでしょう。もう少しL.Aに残ってトラックダウンのテクニックとか学びたかったのだが・・・嘘、ロンダと別れるのがやはり辛かったのだ。
それだけだったと思う。
 そんな訳でしぶしぶ一人帰国の途についたわけである。L.A滞在2ヶ月半。この後CMのレコーディングやらなんやらで何十回となくL.Aには来たが、この時の印象が一番鮮烈に残っている。
 さて、東京ではとんでもない事が起きていた。ボスが3ヶ月も日本を離れていた理由が帰ってすぐに判明した。いやはや・・・。続く

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VOL.12 L.Aの日々 2

 朝7時に起床する事からL.Aでの毎日は始まる。ジンコと共にみんなの分の朝食を拵え(多分この時期の経験によって僕の料理欲が高まったのだと思う)その後、テリーはプールで肺活量を養うトレーニング。キヨミは寝巻きのまま朝からギター抱えて運指のトレーニング、僕は再びカズさんとロケハン。・・・ボスはTVで大リーグ観戦。のどかな午前中を過ごし午後からスタジオ入り。深夜までセッション。真夜中アパートメントに帰り、それからキヨミと僕は酒盛り。歩いてすぐの所に深夜まで営業している寿司屋があった。そこのおかみさんがいかにも在米二世的な美人で、キヨミと僕はとてもやさしくしてもらった。今なら殆ど食べないが、初めてカリフォルニアロールなるものを食べた時には正直美味さに感動してしまった。そんな平穏でルーティンな日々がしばらく続いた。
 レコーディングの第一段階が終了した隙間のある日、ボスに命じられた。
「ケンジ、『パッキン』の『パイオツ』ドッカーンとした女買ってこい」
 当時のサンセットストリートは日が沈むころ、ハリウッドドライブと交差するあたりの両側200メートル程にずらっずらっとコールガールが並ぶのだ。これ以上ないほどタイトなワンピースミニに身体を押し込んだ「黒白抹茶小豆コーヒー柚子桜」のプレイボーイから抜け出たようなグラビア娘がわんさか。今は規制で禁止になり久しいが、当時のハリウッドではひとつの観光名所見たいなもので、それはそれは壮観だった。よくキヨミとボスと三人でゆっくりと車を走らせながら品定めしたものだ。
「ボス、本気です?」
「あたりまえだよ、早くしろ」
 その日テリーとジンコはサウンドエンジニアのレナードの家のパーティに招かれ、おそらく深更まで帰ってこないだろう。確かに今日この日しか楽しみはないな。
「ボス、後で好みで文句言わないでくださいよね」
 そう言いつつキヨミとハリウッドに繰り出した。時間も早くお茶挽いてるアメリカン娘達がしきりに色目を仕掛けてくる。しかし、まだまだ円安の日本、東洋人相手にしてくれるコールガールなんかいやしない。しかもショート(一時間)で200ドル・・・当時の日本円では48000円!チップを入れると一人頭55000円。三人で・・・おいおい165000円也だ。そんなお金持ってないし。ボスに言い訳したいが当然携帯電話なんてない。ボスに確認も出来ず、すごすごと帰ってきた。しかしボスは既に臨戦態勢だったらしく、手ぶらで帰ってきた僕らにめちゃくちゃ当たりだしたのだ。ただしギターのキヨミはアーティストなので例外。僕だけプールに投げ込まれ、 なんと、L.Aに来てすぐに買い求めたモノホンの拳銃「ワルサーPPK」で乱射し始めたのだよ。・・・まあもちろん当たらないようにだけど、単なるおふざけなんだろうけどね。そうは言ってもびびりまくったわ。

 アパートメントの2階にはユダヤ系の女の子、ロンダが暮らしていた。やせ形で顔が小さく、瞳の色は薄い茶色で、鼻筋が奇麗で唇は薄かった。バストの形も素敵だった。しかし彼女は生まれつき足が悪く、車椅子に乗って生活していた。エレベーターに乗るときなど、我々紳士な日本男児はなにくれとなく親切に接したものだ。彼女は毎日プールサイドにやってきては足を使わずに水泳をしていた。障害者の水泳大会にもたくさん出場し優勝したこともあると言っていた。だから上半身の筋肉は素晴らしかった。やがて我々は彼女と親しくなり、レコーディングがない日や早く終わった日はしょっちゅう夕食を一共にした。そして僕は彼女に惚れた。プールサイドで慣れない英語を操ってはたくさん会話を交した。部屋にも遊びに行った。彼女は当時カリフォルニア州や支援団体からの障害者に対する補助金で生活していた。しかし、それだけでは最低の生活しかできないので、副業として「マリファナ」「コカイン」の売人をしていた。部屋の半分に栽培用のプランターがあり、1.5メートル近くに育った大麻が生い茂っていた。当然これは犯罪である。が、しかし今もだが、カリフォルニア州は大麻の個人栽培には寛容で、外で売買でもしないかぎり捕まることはないらしい。
これは今では更に緩くシスコでは不眠症の患者や鬱病の患者には医者が処方する事が
最近許可されている。まあ、大統領が就寝前に吸引している国だからね。ただし、コカインは御法度だ。勿論所持しているだけで即逮捕。結局はコロムビアやブラジルなどにドルが流出することが許せないのだろう。だから誰にでも栽培できちゃうような大麻にはめくじら立てていないのだろう。
 さて、25年も昔の、それも外国の話だから書いちゃうけれども、ロンダが扱うマリファナはおそらくとても上質なものだった。彼女の家にいると頻繁に顧客がやってきた。殆どがアパートメントの住人達だ。若い女の子も男の子もいれば初老の夫婦も買い求めにくる。まるで、田舎から送られてきた無農薬野菜を個人販売しているがごとくに。
 当然、僕も何度もロンダの御相伴にあずかった。しかも毎回御馳走してくれた。特に食事の前は必ず何服か回し飲みする。すると、舌の味覚がとても鋭敏になって、何を食べても素晴らしく美味しいのだ。ロンダはユダヤ系ではあるがユダヤ教徒ではないらしく、禁忌の食物は無いらしい。牛でも豚でも料理してくれた。特にシーフードが得意で巨大なロブスターや、エビ、イカ、ムール貝、ハマグリなどをたっぷりと買い込んでくる。味付けは簡単で、オリーブオイルにニンニクで全部何もかも白ワインで蒸すだけ。食べる前にしこたまライムを絞るのだ。しかし、これが馬鹿にウマイ。
マリファナのせいもあるのだろうが、物も言わずに食べ続け、残ったた汁まで啜ったものだ。
 ロンダはキスがとても上手だった。キスだけで・・・ちゃうくらいに。
 僕はてっきりロンダと付き合っていたつもりだったのが、それは子供の勘違いというものだった。
 ある晩、全員が寝静まった頃、そっとベッドルームから脱けだす影一つ。ボスだ。
部屋着から外出用に着替え、帽子も被り、そっと玄関の扉を開け外に出ていった。こんな時間に一体ボスはどこに行くのだろうか・・・気になり、静かに玄関を少しだけ開き、外を窺ってみた。すると、エレベーターホールにボスが佇んでいる。そして、昇りの箱に消えた。ここは1階だ。アパートの外に出るのにエレベーターは必要ない。
地下にはコインランドリーがあるだけだ。エレベーターの回数表示の灯を見つめていると二階に止まった。間違いなくロンダの部屋に行ったのだ。確かに僕は彼女とキスは交した。が、それ以上の行為には進む事が出来ずにいた。下半身が動かなくても行為は出来るのだろうか、それは相手に対して失礼な事ではないのだろうかと。そう思っていた、と言いたいところだが、若干20歳、そんな細やかな心遣いなどあるわけもない。拒絶され、ロンダとの幸せな時間が失われる事が恐かったのだ。寝られない僕は窓の外が明るくなるまで何度も寝返りをうちながらボスのベッドルームを見つめていた。そして、朝方出ていった時と同様にそっとボスは帰ってきて、ベッドルームにくるまった。僕はその時嫉妬の嵐だった。ボスのベッドの傍らのサイドボードの引き出しには「ワルサーPPK」が入っている。ボスが寝静まったのを窺い、僕はそっとベッドから抜け出し、サイドテーブルに手を掛けた。そこにはシルバーに光る拳銃が。そっと取りだしグリップを握りしめる。第二次世界大戦当時、ドイツのゲシュタポが使用していた名機だ。弾倉には常に7発の弾が込められているはずだ。僕は安全装置を外し、静かにスライドし初弾をチェンバーに送り込む。そしてボスの頭に向けて「ドンッ!」
 そんな夢を見ていたらキヨミに起こされた。いやはや寝取られた、っつーかボスにはどうしたってかなわん。その後もロンダとはうまくやっていたが、二度とキスはしなかった。ウブだったのだ。今なら考えられんな。
 キヨミもやたらともてていた。プールサイドで寝ていると、超美形スタイル抜群がにじり寄ってくる。そしてキヨミの胸を触りながら懇願するように言うのだ「キヨーミ、あなたの乳首にこのピアスを刺させて欲しいのよ」しかし、キヨミにとって残念だったのは相手がゲイだった事だ。最初は判らなかったがプールサイドには男性二人でやってくる光景が多かった。このウエストサイドはゲイがやたらと多い地区だったのだ。手を繋ぎながら歩く男性カップルがやたらと眼についた。しかしそういう連中に限ってメチャクチャ美形なのだ。この頃、まだエイズは発見されていない。西海岸はゲイのパラダイスだった。

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VOL.10 USA初上陸

 サラ金会社に所属中、アメリカでの録音話が持ち上がった。当時の日本ではまだ海外での録音は珍しかった。その数年前のプラザ合意後、円は変動制に移行したのだが当時レートはそれでも充分に円安ドル高だった。確か1ドル240円くらいだったと思う。現在の倍以上だ。海外録音は日本での制作を遥かに上回る高値だったのだ。それでもボスは意地で敢行した。当時のボスの気持ちを諮るに今の自分に似ていると思う。アーティストの為ならばどんなにリスクが掛かっても構わないという気持ちが確かに僕にはある。なんだかんだで影響を色濃く受けているのだなと思うし、その事に何故か悄然としてしまう。
 さて、僕にとっても初の洋行だった。しかもミュージャンの殆どはその後グラミーを総なめしたTOTOのメンバーだった。ギターはスティーブ・ルカサー、キーボードはスティーブ・ポーカロ、コーラスがボビー・キンボール、ドラムスはジェフ・ポーカロではなく、オリビアニュートンジョンのオリジナルメンバー、マイク・ベアードであった。ベースはえーと、えーと、確かイスラム系の人だった。そう!!エイブラハム・ラボリエルだ、うん。確かに当時のTOTOメンバーはまだ、金さえ出せば演奏してくれるスタジオミュージシャンではあった。しかし、僕にとっては夢の様な話だったし出来事だったのだ。
 初めてアメリカのL.Aに到着した時、既に現地は夕やみに包まれていた。訳も判らずイミグレーションを通過した。僕はテリーと一緒にL.A入りしたので、通訳には困らなかった。彼女がいなければひょっとしたらいまだに僕はイミグレーションの手前で暮らしているかも知れない・・・・んな事はないか。既に先乗りしていたボスとコーディネーターが出口で迎えてくれた。そして、そのまま荷物を解く間もなく我々はサンセットストリート沿いの「Whisky A GOGO」というクラブに連れていかれたのだ。
 夕闇の中でアメリカ初情陸の実感も無いまま、車に押し込まれ、いきなり当時最も流行っていたクラブに連れていかれた20歳の小僧の気持ちを慮ってみて欲しい。「うっわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」である。いきなり映画の世界にぶち込まれた気分だった。
なにしろ周りは金髪だらけ。バーカウンターもステージも観客もなにもかもが徹底的にアメリカだったのだ。そして、間髪入れず「ヒューイルイス&ザ・ニュース」のギグである。もうアメリカンOFアメリカン。気分は完全に「アメリカングラフィティ」でね、ぼーっとしていると当時はまだクラブに来る東洋人が珍しかったのか、ひやかす意味だったと思うけれども、次々にマリファナを巻いたジョイントが僕の手に渡されるのだよ。最初はタバコだと思ったのだけれども吸うたびに頭がくんらくんらしてくる。ああ、これがグラスか、マリファナかと思い、くそー、負けてたまるかとばかりにガンガン吸いまくった。しかーし、時差ボケと長旅であえなく沈没。正直に言います。「ヒューイルイス&ザ・ニュース」のライブの真っ最中に「Whisky A GOGO」のフロアにわたし嘔吐しました。・・・情けない。その後大ヒットしたバンドのしかも最後のクラブ演奏だけに覚えている人がいるとしたら、わたしゃその人抹殺したいわ。その後はCMのレコーディングやらなんやらで何十回となくアメリカには行ったけれども、あの時の初アメリカの洗礼は忘れられません。

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vol.9 サラ金その二

 さてと、再び25年前に戻ろう。
 サラ金会社兼マネージャー稼業の僕の毎日はそれなりにとてもスリリングだった。
逆恨みした債務者が出刃包丁持って乗り込んで来た事もあった。毎日一度は恨み言、脅しの電話を受けたりもした。
 専務の木下さんは見た目無茶苦茶恐い人だったけれど、内実この人は優しい人だった。御自宅に招かれた事もあったが、可愛らしい普通の奥様に当時三歳になるお嬢さんがいて、普通に子煩悩なパパだった。木下さんはこのサラ金会社ともうひとつ、闇の探偵業を営んでいた。まあいわゆる事件屋。企業の不渡り手形の回収だの総会屋の手先となって、大手企業の重役のスキャンダルを探すといったお仕事。何故かこの木下さんに僕はいたく気に入られてしまい、何度もスカウトされたものだ。給料も破格。正直、金の多寡で心は動くものよ。なにせ80万円。当時の自分の給料の7倍近く。でもやっぱりね、音楽から離れる事は出来なかった。
 社長のSさん(今どーしてるか全く判らないので匿名とする)はとにかく芸能界好き。それも夜のクラブ遊びで自慢したい、ただそれだけの理由。しょっちゅうお供をさせられた。ヤレもしない女とただ呑むだけの慣行の阿呆らしさに20歳で気付き、その後、接待以外でそんな場所に出入した事はない。ただでさえ、周りにはピッチピチに若い娘たくさん居るし。みんな恐いけど。
 S社長と同じく、事務所に詰める若い衆達も芸能界に憧れる輩が多かった。そんな連中を逆研修とばかりにNHKの「レッツゴーヤング」の収録に連れていった。NHKホールの楽屋口はステージ下手の入り口に向かって長い待合いロビーになっている。ステージの状況が見えるようにその通路の真ん中にモニターが置かれ、向い側に安手のソファーが並べられている。25年前も現在も殆どおんなじ。ったく番組のプロデューサーにポッポされる前に少しは設備に金掛けろよ、公共放送。(ついつい本音)
 その頃の「レッツゴーヤング」の司会は確か太川陽介と榊原郁江ちゃんだったと記憶する。その後、田原のトシちゃんと聖子ちゃんに変わったのかな。今は「ポップジャム」という名前でこの番組は継承されている。だ・か・ら、ロビーと楽屋、もすこし何とかしろよな。
 で、この日このロビーの一角に相当異色な連中が占拠した。でもね、いつもは肩そびやかしている連中がまるで「借りてきた猫」状態。自分たちの前をいつもはブラウン管の中でしか見た事ないタレント達が闊歩している。松田聖子、小泉今日子、近藤真彦・・・。
どういう顔していればいいのか判らず、ひたすら下を向くばかり。けっ、可愛いやつらだ。
 で、僕はたまたまピンクレディと、適当になんとなく顔見知りだった時代があって(この辺はもうあんまり覚えていない。土井ハジメさんという振付師との付き合いの延長だったと思う)この日、ミーちゃんとケイちゃんが通りかかった時に「御無沙汰してます」と声を掛けたのだ。すると二人もなんとなく顔だけは覚えていてくれたようで「ああ、どうも、お元気ですか?」と、むっちゃくちゃ業界系社交辞令を返してくれたのだ。当然名前なんざ覚えられちゃいない。しかーし、業界免疫の全く無い先輩社員さん達にはこれが相当「キチャった」らしい。
「すごいっすねーピンクレディと知りあいなんすか」
いきなり敬語。あんたさー、この前俺の事ぼこぼこにしたやんけ。
「いやぁ、ちょっとね」と僕。
なーにがちょっとね、だっちゅうに。でも、ちょいと「勝った」という気分を味わったな。
忙中歓あり・・・。
 その後、このサラ金会社も斜陽化していく。なんだかんだで社長も専務も悪人になりきれなかったのだ。何度も債務者に借金踏み倒され、ボスにバンバン金遣われ、裏ビデオ屋は摘発され、歌舞伎町のデート喫茶も時を待たずして日本のヤクザに乗っ取られた。で、ある日潰れてしまった。その後社長のS氏は映像制作会社を起ち上げるが失敗。今はどうしてるのかな。所詮は船橋でパチンコ屋や焼き肉屋を手掛ける家のボンボンだったのだ。
 専務の木下さんは数年後、京浜運河に他殺死体で浮かんだ事を新聞で知る。・・・。
家族の行方は知らない。この人にはかなり好意を持っていた事を自分の泪で知った。

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vol.8 番外現代

 ここまで一気にずらずらと書き連ね、気分までもが一気に過去に戻ってしまい、自分が今まで突っ走ってきた事が本当に正しかったのか、この道選んで良かったのだろうかと、ふと考え込んじゃいました。まあ今更悔やんでも仕方無いし、意味無いし、時間の無駄だし、取りあえず禁酒中ではあるけれども、へばっているのは肝臓だけじゃないし、今更健康に配慮したって明日何が起きるか判らないこの世の中で1リットル程の酒を我慢したからって多分なんの支障もないだろうしお医者の吉田先生に見張られているかったのか、この道選んで良かったのだろうかと、ふと考え込んじゃいました。まあ今更悔やんでも仕方無いし、意味無いし、わけじゃないし看護士の佐藤さんはそりゃ可愛いけれどもだからって何が出来るってもんじゃないし毎週2回2本づつ注射も打ってるし天気はぐずついてるしそう言えば何となくさみしいしそう言えば何となく虚しいしだから呑んじゃえ呑んじゃえじゃんじゃん呑んじゃえ、って呑んじゃったら止まらなくなって結局三日間も呑み続け何が禁酒なんだか誰が禁酒なんだか判らなくなってしまった。今日は呑まない。
明日も呑まない。明後日はわからん。

 さて、ぼこぼこ人生の続きです。さすがにこの年齢になるとぼこぼこにされる事はなくなったと思うでしょ。ところがどっこい、ぼこぼこついでに40歳過ぎてからの悲劇「麻布警察署で朝を迎える」番外編のはじまり。
 3年前のある夏の日、スタッフの水村と断酒中のウツリ(山移高寛氏、当時は社員だったが現在はフリーの作曲家サウンドプロデューサー)と六本木に呑みに出掛けた。水村というヤツ、筋肉を鍛えることが趣味のナルちゃん野郎で、二の腕もぶっとく胸筋をムキムキさせるのが特技というヤツ。普段酒呑まないとどちらかといえば石橋を叩いても渡らないという、良く言えば思慮深く、悪く言えば優柔不断なヤツ。しかし一旦呑み始めると、呑んだ分だけ脳みそが溶け出してしまうのか、いきなり限りなくお馬鹿に変身する。体格ゴリラ並、頭サル並の凶器に変貌するのだ。この日も三軒目を出た頃には完全に自分の世界に埋没してしまい、深夜の六本木の街を「ごふっごふっ」と鼻息荒く闊歩し始めた。そして惨劇は勃発した。何をどう勘違いしたのか目の前3メートル先にいる身なり業界風の若者が「自分に眼飛ばした」と言い張る。その人明らかに反対側見てんのに。全然目合ってないのに。止める間もなくゴリ男突進。いきなり「バキっ!!」顔面横殴り。どちらかといえば華奢な体格のその若者は「シューッ」と吹っ飛んで閉店後の店のシャッターに激突。慌てて僕は後ろから水村を羽交い締め「こらっ馬鹿タレが、やめろ!!」水村の両脇の下に手を突っ込んでも止まらず、ゴリ男は更に突進し2発目を放とうとしている。こりゃあかん、僕は続いて両足を水村の腰に巻き付け転ばそうとしたのだが、馬鹿ゴリ野郎は既に操縦不能ブルドーザーと化していた。僕を背中におぶったまんま手足をぶるんぶるん振り回し、倒れた若者に乗りかかろうとする。その時振り回したヤツの肘が僕のわき腹を直撃。「ぐふっ」力が抜けてその場にへたり込む。更に凶器の腕はやじ馬の一人にも当たったらしい。そして、当たった相手はチンピラヤクザ。事態はわずか10秒の間に最悪の状況に変化してきた。警察沙汰にしない限り別の収束を考えなければならない様相。現実が判らずなにやら喚き散らすゴリ男。この時叫んだ言葉がチンピラヤクザの導火線に火をつけたようだ。「てめえ、こら、今なんつった。○○組だあー?てめっどーゆー意味だこのやろ」いきなりこの夜の関係者となり凄むチンピラ。水村は某大手広域指定暴力組織の名前を出したらしい。「いや、関係ないから。全然関係ないから」釈明する僕。でも全然収まらないヤクザ君。六本木の派出所が近かったので、不幸にもゴリ男に殴られた若者をウツリと担ぎ、喚き散らすゴリ男とヤクザ君を引き連れて派出所に向かう。そして更にのっぴきならない事実が判明する。いわゆる血の気が「さあーーーー」と退く類い。歩道を歩いているのにダンプカーに撥ね飛ばされてしまったような不幸な若者は、なんと当社のお得意様会社の社員だったのだ。最大手芸能プロダクション系のCM映像制作会社の制作マンだった。派出所で仰天し恐縮しシオタレテ名刺を渡す。
「すんません、いつもお○○さんにはお世話になってます」ひたすら謝り続ける僕。
相手は当然の事ながら憮然としている。相当やばい。ヤクザ君の問題など吹き飛んでしまった。ゴリ男はいきなり暴れて酔いが回ったのか呂律もへろへろ。もうただの粗大ごみと化している。メンドくさいからそのままヤクザ君にあげちゃっても良かった
のだが、そういう訳にも行かない。今度はぞろぞろと麻布警察まで移動。水村は取り調べ室へ連れていかれる。ヤクザ君は刑事さんに囲まれても相変わらず強気満々。今度は僕に脅しをかけてくる。「あいつよー、いつも○○のジムに通ってんだろ。見たことあんだよ」語尾がやたらと粘り着くような頭悪そうな喋り方で凄む。刑事さんの一人が僕に囁く。「なんでまたこんな面倒なヤツに喧嘩売ったんだよ」「はあ・・・」
実際の所なんでこのヤクザ君が怒っているのかよく判らない。殴ったわけでもなくただちょっと肘が触った程度。単なる言いがかり。収拾がつかなくなりそうな所に更にもう一人ヤクザさんが登場。と思ったらマル暴係の刑事さんだった。刑事さんはヤクザ君に一言「おまえ、この人達に後でなんかやろうとしたらしょっぴくからな」その一言でヤクザくんはシュンとしてしまった。この問題はこれで終了。めでたしめでたし。というわけにもいかない。今度は手当てを受けているお得意様の制作マンの所に行き、土下座。酔いが醒めたら必ず水村にも謝罪させることを約束した。彼は相変わらず憮然としながらも(当たり前だ)ようやくなんとか許してくれた。一応は社長が土下座してる訳だしね。起ち上がろうとしたら脇腹に激痛が走って僕はその場にうずくまってしまった。一応事件が解決に向かったのを見届けた瞬間、身体が信号を発したのだろう。刑事さんが僕のシャツをめくって脇腹を触った。「ぐげっ」顔をしかめた僕を見て一言。
「ありゃ、こりゃ肋骨イっちゃってっかもしれないよ」
すぐさま救急車が呼ばれ僕はそのまま救急病院に直行。レントゲンの結果折れてはいなかったが2本の肋骨にヒビが入っていた。

治療を受けコルセットでガシガシに胸を押さえつけられ、朝方再び麻布警察に戻る。
水村の身元引受人として。ウツリは寝ないで待っててくれた。水村は「ぐわーぐわー」イビキかいて寝てやがった。けっ飛ばして水村を起こし、すっかりと明けた六本木の街を三人、西麻布方面に向けてよたよたと歩き出した。とんでもない一日の始まりだった。
ったくなんでこの歳でこんな目に会わにゃならんのかね。もうそういう類いの荒事からは卒業させて欲しいわ。
思い掛けないところでウツリを登場させてしまったが、いずれ過去編でもう一度きちんと紹介する。
 そして、僕の肋骨はいまもしくしくと痛むのだ。でも酒を呑むと痛みは薄れる。
んな訳で今日も呑んじゃおうかな。

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vol.7 なぜかサラ金業界へ

ボスの人間としての弱点はギャンブルだった。人生がギャンブルそのものだというのにそれでもギャンブルが好きだった。毎晩賭け麻雀。僕らへの給料も殆どは賭け麻雀で稼いでいたんじゃないかな。だから、給料日が近づくと二三日行方不明になる。
そして、給料日の朝、札束を持って現れるのだ。負けた時はしばらく行方不明になる。
借金もハンパじゃなかった。田辺エージェンシーをはじめバーニング、ボンド、ホリプロにサンミュージック。主立ったプロダクションの殆どに借金をこさえていた。しかし、どこの会社もなぜか上条さんには金を出すのだ。田辺のK村副社長も「しょうがねーな」と言いながらなにかとボスを助けていたように感ずる。
 そして、ある日のこと。借金はついに闇金融にまで及んでいたことを知ることになる。
 ボスから一言。
「ケンジ、明日からはここの会社に出社してくれ」
そう言って地図を渡された。当時社員は僕とデスクの女性の二人になっていた。ちなみにデスクの女性は当時交際していたカズエちゃん。
 なんの事やらさっぱり判らず、翌日指定された場所にカズエちゃんと二人出社すると、そこは・・・サラ金会社だった。しかもいわゆる早い話が暴力金融である。早速社長と専務に呼ばれ、会ったが・・・二人ともパンチパーマのどこから見てもどんなにひいき目に見ても100メートル離れて見ても御立派なヤクザにしか見えなかった。
そして、そこに働く人達もみーんな筋者だった。デスクが並ぶ中に三角形のプレートが置いてある。「芸能部」そこが僕とカズエちゃんの新しい職場になった。つまり、借金のかたに会社とテリーのマネージメント権が売り飛ばされてしまったのだ。ボスは引き続きプロデューサーを務める事になったが、いわゆる雇われプロデューサーである。まだ30代の前半くらいの社長と専務にボスがぺこぺこと頭を下げているのを見るのが忍びなかった。
 彼女のカズエちゃんをそんな所に引っ張り込んでしまった事が申し訳なくて「辞めたほうがいいよ」と促したが、当の本人は「おほー」と笑いながらこの状況を楽しんでいたようである。そういえばちょっと変なヤツだった。
 この会社の主業務は勿論金貸し。しかも重複債務者を狙って顧客にしていた。金主は大手のパチンコメーカーだった。社長と専務、社員の殆どは韓国人で、僕らに聞かれたくない話は全て韓国語で交されていた。そして、もう一つのシノギ、じゃなくて業務が新宿歌舞伎町で経営するデート喫茶と裏ビデオの制作・・・。もう厭。
 翌日から研修と称して僕はこれらの事業部を転々と回された。やらされた仕事を列挙すると、デート喫茶で客と揉めたときの仲裁業(しつこい客をぼこぼこにすること)縄張りを荒らす同業者とのお話し合い(出入り・・・まあこれは枯れ木も山の賑わいで後ろにそっと立っていただけ要は数合わせ)裏ビデオのスカウト(当時は主に上野駅)と、現場の照明係。・・・もうこの辺でこれを読んでくれている若い人達は相当退いていると思う。僕も初めて明かす真実。でもね、でもね、その内僕にも明るい未来がやって来るのでもう少し辛抱して読んで頂戴ね。
 そして、極め付けは債務者への取り立て。この頃はまだサラ金に対する規制が緩かったのでなんでもありだった。夜中だろうが早朝だろうがお構いなしに債務者の家に押しかけた。出て来るまで一時間でも二時間でも扉を叩きまくる。そしておきまりの誹謗中傷なんでもありのビラ貼り。
 忘れられない取り立て話が一つある。先輩社員とある家に出掛けたときの事。家には小学生の男の子と、妹なのだろうか女の子だけがいた。両親は子供たちを置いたまま行方をくらましていた。その家を三日間張った。家には食べるものは何も無かった。
冷蔵庫の中にはマヨネーズが一つのみ。そのマヨネーズが行くたびに減っているのだ。空腹に堪え兼ねた子供たちは交互にマヨネーズを吸っていたらしい。可哀想で見ていられなかった。先輩社員の目を盗んで僕は二人に菓子パンを買ってあげた。そして、それが先輩にばれた。僕はぼこぼこに殴られた。
「ばかやろー!!てめえのちんけな情けのせいで、こいつらの親共はまたしばらく姿見せなくなるんだよ!!ガキは可愛いんだよ。かならずどっかで様子うかがっているに決まってんだろ!!学校の給食が無けりゃ、とっくに姿現してんだよ!!」
僕がかけた情けは結局子供たちにとっても裏目にしか出なかったのだ。その時僕はこの世界も奥が深いなと思ったものだ。しかし、僕の黎明期はなんでこんなにしょっちゅうぼこぼこに殴られてんだろう。なんかあるとすぐにぼこぼこ。

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vol.4 The 芸能界修行篇その一

 僕が入ったころの田辺音楽出版の状況はと言えば、吉田拓郎のバックでスーパーの紙袋を被っていた謎の三人組「アルフィー」が深夜放送から火が付き大ブレイクの兆しを見せていた頃だった。又、研ナオコさんが中島みゆきの作品「カモメはカモメ」で大ヒットし、他にも新人の中原理恵、高見知佳、倉橋ルイ子らが次々にヒットを飛ばしていた。会社にはこれらの人達がひっきりなしに訪れていた。その度に新入社員見習いとして紹介され、華やかな芸能界に自分が存在していると錯覚し、正直ポーっとなっていた。実際の僕は単なるバイト、パシリに過ぎなかった。仕事は相変わらずエジソン先生のローディだった。
 上条英男氏は前述の元テレサ野田、改名後「西園寺たまき」を田辺エージェンシーと共同マネージメントしていた。田辺エージェンシーの担当マネージャーは、アルフィーのマネージャーも兼任していた松浦さんという人だった。そして、僕は修業のためにこの松浦さんの元にアシスタントとして出向を命じられたのだ。
 さすが田辺エージェンシー生え抜きのマネージャー、松浦氏はただ者ではなかった。
厳しい細かいうるさいしつこい。仕事振りもとにかくプロだった。一度出掛ければ必ずTV、ラジオの出演、雑誌の取材、グラビアをもぎとってきた。アルフィーが今現在でもトップアーティストとして君臨している陰には、松浦氏という敏腕マネージャーの存在抜きには語れないだろう。しかーし・・・僕はこの松浦さんが嫌いでならなかった。毎日うんざりしていた。何度もぶちころしてやろうか、このヤローと思っていた。
そして、そんな僕の気持ちを見透かしたかのように上条英男氏の「魔の手」が忍び寄ってきたのだ。
 西園寺たまきは愛称「テリー」と呼ばれていた。
当然の事ながら松浦さんにくっついて回っているうちに上条氏ともテリーとも仲良くなっていた。上条氏は当時「シティワンミュージック」というマネージメントオフィスを経営していた。この会社にも何度も足を運んだ。
 当時、この「シティワンミュージック」にはとても可愛いデスクの女性が二人いた。
可愛いデスクの女性に魅かれた訳ではなかったが、いや、そうかも知れない、うーんどうだろう、まっ多少はあったかな。
 徐々に僕は田辺にいる時間よりもこの会社に滞空する時間が多くなった。松浦さんから逃げたい気持ちも強かったかな。デスクの女性二人は休み時間になると屋上に上り、毎日発声練習を行なっていた。多分タレント志望なんだろうなとは思っていた。
それからすぐに一人は「ゴーイングバックトゥチャイナ」という曲でデビューした。
名前を鹿取 洋子といった。もう一人はミスキャンパスと呼ばれ大ブレイクした川嶋なおみだった。今やワインで出来た血液を持つ変な女として有名だ。 川嶋さんは三上さんというマネージャーと「スリーアッププロモーション」という実に安直な名前の事務所を起ち上げ一緒に独立した。鹿取さんもデビューは何故か「シティワンミュージック」ではなかった。なぜだったかはさすがに忘れてしまった。まあ、なにかとさすがに言えないことも多くある。かんべん。
 上条氏からなぜか僕はとても目を掛けられ、しょっちゅうなんやかやとご馳走になっていた。業界では普通晩に「飯でも・・・」と誘われた時は大体酒呑みにが含まれる。
しかし、上条さんは酒が飲めず「飯を食いに行こう」という時はホントに飯を食うのだった。だから、ステーキだの焼き肉だの豚カツだのをよくご馳走になったものだった。そのうち、上条氏から僕は「シティワンミュージック」への入社を勧められた。
しかもテリーのマネージャー待遇としてである。迷った。大いに迷った。エジソン先生への義理もある。田辺音楽出版の人達はとても優しかった。 しかし、この上条氏、実に危ない魅力を持っていたのだ。未来の事なんて全く現実として捉えられないほどに僕は若かった。いずれ事情を知るが、上条氏の右手の小指は・・・第一関節から先が無かった。その頃は恐くて聞けなかったが、なんというかそんな所までが魅力に写ったのだ。極め付けはある日のTV朝日での事。
 テリーのTVの収録が済み、車に乗り込んだときだった。いきなり車が地震にでも遭遇したかのように大きく揺れ、天井に岩でも落ちてきたのかと思うような衝撃に襲われた。「な、なんじゃー」と思う間もなくフロントガラスに逆さまにサングラスを掛けたリーゼントへアーの男がぬっと顔を出した。そして、その男は叫んだ。
「ボスー!!」
上条氏がその男の顔を認めるや破顔一笑。
「おお、ひろし!!」
車から飛び出た上条氏はそのひろしと呼ばれた男と抱き合った。
「ひろし!!お前元気にやってるかー!!」
「ボスこそどうしてんすか、つめてーじゃないっすか。連絡くらいしてくださいよ」
そのひろし君は・・・元クールスの「館ひろし」だった。上条英男、館ひろしがボスと呼ぶ男。
 いやあ、上条さん・・・カッコよすぎだわ。この出来事は決定的だったね。その瞬間上条さんあなたに追いていきます!!と僕は決心した。
単純だったのだ。
 そして、その日から上条さんは僕の「ボス」になったのである。
田辺を去る事になった日、みんなが歓送会をしてくれた。乾杯の後エジソン先生は大ジョッキに入ったビールを僕の頭からどぼどぼと降り注ぎ、僕の頭を思いっきりひっぱたいた。そして一言。
「二度と戻ってくんなよ」
・・・人生はじめて人を裏切った。

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vol.2 芸能界の入り口篇

男というもの、過去を語る様になっちゃあ、おしまいでしょ。というのが僕の口癖だった。なので僕の黎明期を知る人は少ない。それがなぜ今こんな駄文をあからさまに残そうと考えたかと言うと、まあね、ずっと走り続けて来てちょいと疲れたのかな。今は小休止。一度今までの四半世紀を振り返ってみて、過去の自分からパワーを貰おうかと、そう考えた次第。ここからの話はかなり恥ずかし人生でもある。

高校卒業後、音楽の道を志したのはバンドで僕一人だった。つまりバンドは卒業と共に解散。ただ卒業後に一度だけYAMAHAの主催する「EastWest 東京大会地区予選」に参加した。無論本選には行けなかったが、とりあえずベストボーカリスト賞なる賞を頂戴した。その時の審査員はベーシストの鳴瀬喜博氏、ギタリストの山岸潤二氏。その寸評「フロントのボーカルとバンドのイメージの統一感のなさは一体なんなんや!!」
思いっきり呆れられた。今でも思いだすが、無茶苦茶なステージ衣装だった。フロントのボーカル二人はえせサーファールック、当時の流行り。サーフィンなんてしたことないのに花柄のシャツにすその広がったサーフパンツにビーチサンダルという格好。
陸サーファーと言われていた。ギターはリーゼントにダボダボヨーロピアンコンチパンツ、ドラムスはパンチパーマに斜めサングラスに黒のシャツ、しかも足下は網サンダル、ベースの僕は上下作業服に腰に手拭い。もうわけわからん。しかもバンド名は「紫陽花」解散して正解だったね。
さて、僕は卒業後一人やることもなく、それでもなんとか音楽関係にぶら下がっていたいと考えていた。なんの保証もないし、当然コネもない。専門学校に行く気も無かった。それでも何とかなると思っていたようだ。とにかく気持ちだけはミュージシャンでいたかったので、どこに出掛ける時も必ずベースをかついでいた。バイトに行く時もデートの時も単なる買い物に行く時でさえ、いやあ無駄に重かったわ。その当時やっていたバイトは第三京浜のサービスエリアの立ち食い蕎麦屋、石油の配達、戸塚駅前の場末のピンサロのバーテン、沖仲仕・・・。とにかくなんでもやってた。そして最初の冬、人生初の音楽業界関係のバイトが舞い込んできた!!「寺内タケシとブルージーンズ」ローディ募集。事務所が伊勢佐木町にあった。相変わらず意味無くベース担いで面接に行くと即日採用。後で聞いたら前日にローディが一人逃げ出したからだった。
いやはや、初めて接した音楽業界はハンパではなかったよ。なにせ自分も2ヶ月で逃げましたもの。しかし良く2ヶ月も持ったもんだわ。何がローディだっちゅうねん。いわゆる当時で言うボーヤ。バンドメンバーの使いッパシリが中心&叩かれ役。寺内タケシという人はバンドメンバーを徒弟制度で雇っていくので次々にメンバーが入れ替わる。メンバーとは言え、寺内大将の子分だから無茶苦茶な扱いを受ける。少しでもとちると演奏中でもけっ飛ばされるし、普段から厳しい順列が存在する。そして、ローディは当然一番の下っ端。バンドさん達が大将から受けたストレスは更に増幅されて津波の如く僕に押し寄せる。一日中座ることは一切許されず、タバコ銜えたらすかさずライター、タバコが切れる前に買いに行かないとパーンチ!一日ほぼ20時間労働。そしてバイト代は一日3000円。しかも不定期。中でも強烈だったのは真冬のド真夜中に大将のキャデラックを洗わされたこと。車の下に潜って下も洗わされる。寒いなんてもんじゃない。濡れた所がパリパリに凍るんだわ。翌日の朝までにピッカピカにしておかないとまたもやパーンチ! 洗車後に雨が降ってきて再びパーンチ! 雨はオレのせいじゃないつちゅうに・・・。そして最も強烈だったのがやっぱり真夜中の
事。関東地方台風上陸の日。「おう、寿司買ってこいや」の一言。そりゃむりっしょ・・。でも否は許されない。土砂降り横殴りの雨ん中、伊勢佐木町の商店街走り回った。もちろん開いてる店なんてあるわけがない。コンビニなんてものが登場したのはそれから十年も後のこと。仕方なく閉店していた一軒の寿司屋のシャッターを叩いて土下座して一人前握ってもらった。ご主人は僕の事を完璧にヤクザの下っ端と勘違いしてくれたみたい。当時の伊勢佐木町は何かとヤクザのみかじめが厳しかった頃だったので、おかみさんが勘違いついでに同情してお茶まで出してくれた。しかーし・・・寿司折りぶら下げて帰ってみりゃ・・・「遅えんだばかやろー!!」とまたもやパーンチ!! もう殆どヤクザの見習いとおんなじ。それでもなんでも音楽関係にぶら下がっているという事だけでなんとか希望を見いだしてた。ごくごくまれにベースを教えてくれた事もあったし。その時も言われたね。
「おめえリズム感わりいな」
そして、2ヶ月目の朝方大みそかの前日に逃げた。その月のバイト代はもういいやと思って諦めた。伊勢佐木町から戸塚までとぼとぼと歩いて帰ったね。まだまだ社会の厳しさも知らない18歳の冬の事。履歴書に自宅の電話番号も書いたから電話掛かってくると思ったけど音沙汰無しだった。ボーヤが逃げ出すのは日常茶飯事だったんだろうな。10年近く経ってからかな、スタジオで当時一番僕をぶん殴ったギターリストに出会ってしまった。向こうは完全に忘れていた。こっちは既にディレクターだったから意趣返しに・・・なんて事はしないさね。名前は出せないが今でもたまにギターお願いしている。

しかし、まだまだこんなのは序の口だった。それから一年後・・・。つづく

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vol.1

 3歳・・・同じ団地に住むカオルちゃんがバイオリンのお稽古をはじめた。
それが僕の音楽人生のスタートである。カオルちゃんと同じ時間を共有したい、そんなせつない恋心から僕もバイオリンのお稽古を始めたのである。そのカオルちゃんは数年前までNYフィル、シカゴフィルなどで活躍していた。
僕のバイオリンも12歳まで続いたが、今は何一つ弾けない。
後年、CM音楽制作業を初めて数年後、三井のリハウスのCMにてこの経験は一度だけ地味に活かされた。その割に唯一の自慢でもある。
朝日が丘に転校してきた美少女「白鳥麗子」本名「宮沢りえ」ちゃんがバイオリンを弾くシーンがあり、僕は無謀にも持ち方指導をしたのである。そう、弾けないけど形だけは覚えていたのだ。ちなみにこの時のCMで「三井のリハウス」のサウンドロゴを歌唱している女性シンガーは数年後、我がかーちゃんとなり、現在別居中である。なんじゃそりゃ。
11歳、同じクラスの美春ちゃんがブラスバンドに入部し、トランペットを始めた。
次の日、僕はカワイ楽器でマウスピースを買った。
「こんにちはトランペット」ならば今でも吹ける自信がある。
15歳、転校してきた境木中学校3年3組、えーと・・・男の名前はすぐに忘れる。ヤツ、仮にギタ夫とする。休み時間に彼の周りには女子が群がっていた。S&Gやかぐや姫の曲を弾き語り、くそったれが人気を独占していた。
家に帰ると、兄が持っていたガットギターにフォーク弦を張った。チューニングも知らなかったので、単音でメロディをつま弾いた。バイオリンを習っていたお陰で、弦を押さえる事に拒否感はなかった。密かに「ヤングギター」という月刊誌を買い求め、コードを覚え始めた。それからFのパワーコードが押さえられるまでには一年が経過し、なんとか一曲弾けるようになった頃、クラスは受験体制となり、ギタ夫の周りには参考書を持った女子が群がりギタ夫は有名進学校に入学した。
僕は完全に出遅れ、っつーか比べようがないほど馬鹿だったのだったが。当時好きだった直子ちゃんが目指す新設の神奈川県立舞岡高校を自分の目標に定め、なんとなく合格してしまった。しかし直子ちゃんは合格後すぐにゴウド君と交際い始め、その関係は以後卒業まで三年間続いた。
ギターが普通に弾けるようになった頃高校でバンドを組んだ。しかし全員がギタリスト志望だった。リーダーの地位をエサに、僕は泣く泣くベース担当になった。当時ベースは地味な地位だった。ベーシストがもてはやされるようになったのはそれから数年後、後藤次利が木之内みどりをやっちまってからだ・・・と思う。
さて我がバンド名は「紫陽花」アリス派とかぐや姫派に分かれたコピーバンドだった。
後年よもや谷村新司さんと懇意になるなど夢にも思わず、当時僕はかぐや姫派で、チンペイさんの歌い方をこきおろしていた。でも、チンペイさんがパーソナリティをつとめる文化放送の深夜番組「セイヤング」は大好きで毎週欠かさず聴いていた。ばんばひろふみさんとのコーナー企画「天才秀才馬鹿」は当時大ウケだった。
紫陽花でも僕のベースのリズムが悪いと指摘され、何度かクビにされかかったが、僕はリーダーだったので強権発動で回避した。当時オリジナルも作った。僕が初めて作詩作曲した作品のタイトルは「星の王子様」・・・今でも歌えるが二度と発表しないまま僕は死ぬ。夜中などに突然思いだすと、恥ずかしさでもん絶してしまう。覚えているヤツが存在していたらおそらくそいつを殺してしまうだろう。

というわけで、3歳の時カオルちゃんに出会った事が今の僕の音楽人生を決定づけたという事らしい。                          
既に高2の時点で大学に進学する気持ちはなかった。
具体的な進路のイメージも特に定まっちゃいなかったが、まあ高校進学時の受験勉強で燃え尽きてしまったのだな。
この頃はバンドでベースを弾いている事よりも、音楽の方向性を考えたり「いかに客にウケるか」みたいな事を考えることが楽しかった。レパートリーにもコピーだけではなくオリジナル曲を増やした。そんな折り、ピアノを入れる事をリーダー特権で決めた。幼なじみのマサコちゃんである。果たしてピアノが欲しかったのか、マサコちゃんという自分への潤いが欲しかったのか、間違いなく二分八分で後者だった。加入後は練習が楽しくて仕方なかったね。ちょいの間交際したけど、青学の大学生に持ってかれちまった・・・ケッ、いまだに青学の学生見るとキンタマ蹴り上げたくなるのはその時の後遺症だな、しないけど。
ドラムスも加入した。ベースがへたれでリズムが安定しないのが原因。これまた幼なじみのマサシが加入というよりも問答無用で乱入してきた。マサコちゃんは小学生の時マサシの事が好きだったことを知っていたので、何とか阻止しようと画策したのだが、腕っぷしに負けた。マサシは当時、日大藤沢という男子校に通っていて、この学校は当時馬鹿ワル野郎が多く戸塚駅でしょっちゅう公立高校の学生をカツアゲしていた。バンド内では馬鹿ワルマサシを入れる事によってヤツラのカツアゲから逃れようという行政的な思惑も有ったのかも知れない。僕以外はマサシの乱入もとい加入に積極的だった。
ちなみにマサシは現在カメラマンとして活躍。明日香の海外には必ず同行し、貴重な記録映像を撮ってくれている。明日香が素の自分を撮らせる事を認めた数少ないカメラマンだ。
さて、我が「紫陽花」は戸塚近辺では結構人気が高く戸塚公会堂で行われたワンマンコンサートでは1500人のキャパを満員にした。マサシが学校の友達を使って公立高校の生徒達に売りつけたのではという黒い噂も立ったが。
当時、戸塚駅近辺では「紫陽花」と人気を二分する市立戸塚高校の「政府高官」といフュージョンバンドがあった。ギタリストのテクニックが素晴らしいと評判だった。
そのギタリストの名前は成川と言った。そう現在TRAや明日香のサポートで有名なナリさんである。そして、キーボードは津田直士といい、後にCBSソニーに入社し、Xをデビューさせた初期のプロデューサーとして有名である。しかも僕の義理の兄貴でもある。彼の妹が現在のかあちゃんである。ちなみに現在別居中・・・。
また、後に大ブレイクしてしまった「横浜銀蝿」も同時代を生きていた。彼らのコンサート前の単独プロモーションは今でも伝説になっている。ある朝、戸塚駅前の「横浜銀行」の「行」の字が一夜にして全て看板から案内まで「蝿」の字に張り替えられていたのである。この一件は当時神奈川新聞にも掲載された。
ギターのジョニーさんとは現在もキングレコードのディレクターとして親交が続いている。もう一人、我が舞岡高校の同級生には馬鹿テクギタリストが存在した。Gibsonのレスポールを持ちパープルやツェッペリンなどのハードロックを弾きまくっていた。
その名を本田清巳通称ホンチといい、ヤツもまた明日香の「ake-kaze」「凛の国」
「神々の星」「声」「花結び」などでダイナミックな生ギターを弾いている。また、彼は高校卒業後しばらくして、白井貴子&クレイジーボーイズに途中参加し、バンドのみんなのアイドルだった白井貴子を後から来てかっさらい、結婚して恨まれた事は有名である。ちなみにBeloveloverのドラムのヨッチはクレイジーボーイズのドラマー、河村カースケ氏の息子である。
同じく舞岡高校の同級生でマサシと同じく幼なじみに高尾直樹というヤツがいる。高校卒業後アメリカに留学し、帰国後上智の大学院に進むも僕にそそのかされ、音楽業界に引きずり込まれた。現在は福山雅治、鈴木雅之、吉田拓郎、Misia他多数のサポートコーラスとして多忙を極めている。彼は明日香のポケモンジラーチ「小さきもの」海外版でコーラスを入れてくれている。
しかし振りかえってみると、現在僕の周りの貴重な音楽ブレーン達の多くはこの高校生の時期の出会いから熟成されているようだ。
さて、次は怒濤の卒業後、ヤクザな芸能界篇に突入する。
僕の平和な音楽時代はここまでだった

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新規一転

一年程更新していなかったgooブログ、久々に更新しようと思ったらパスワードを完全に失念してしまっていた。どうやっても思い出せないので心機一転ココログに引っ越し。
今までの文章も今一度こちらに移動させる。さすがに四半世紀は長いので、小分けにして
アップ。今後もよろしく。

音楽業界にこの身を投じ早24年。
当初ベーシストを目指すもリズム感悪くレコーディング中に解雇。
以後、スタジオ内で最もでかい態度を取る事が許されるディレクターチェアに座る事を目指しスタッフ業に転身。田辺音楽出版にて丁稚修業の後、当時から悪名高いスカウトマンプロデューサー「上条英男」に弟子入り。実弾入りの拳銃を向けられること数回、竹刀でぶちのめされること数十回、殆どぼろ雑巾のように扱われた二年を過ごし、CM音楽制作プロダクションに入社。その後独立し、株式会社ミュータントを起ち上げ、以後現在に至るまでCM音楽延べ2000本制作。現在はアーティストプロデュースに軸足を移し、多数のアーティストをプロデュースしてきた。5年前、11歳の林明日香と出会い、13歳でデビューさせ、以後3作のアルバムをフルプロデュースした。デビュー曲「ake-kaze」「つゆくさ」を始め「凛の国」「風の凱歌」「一粒の種」「五月の空」など数作品の作詩も手掛けた。おそらく二度と出会えないであろう図抜けた逸材であったが、林明日香のステップアップの為につい最近断腸の思いで我が元から手放した。いずれ成長した明日香と再びタッグを組む事を約束し、現在に至っている。
 当ブログでは、今後自分がプロデュースしていくアーティスト達の動向をリアルタイムに記すと共に、日々の音楽業界生活を嘘いつわりなく露呈し、当該者より苦情が出ないかぎり赤裸々に綴っていきたいと思う。又、今まで体験してきたCM業界の事、若き頃に過ごした無茶苦茶な修業時代の事なども脚色無く記していきたい。
普段見られない裏側など楽しんで頂ければ幸いである。

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